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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

詩の欲望は3.11へ向かって(四)

今被災地には、その何割さえもまだ手の付けられない瓦礫の風景が拡がっています。
私自身も先日宮城県石巻市の瓦礫の原に立ち
まさに空襲や原爆投下による焼け野原とのアナロジーを感じました。
正確には映画やテレビで見た空襲や原爆投下の映像とのアナロジーですが、
しかしもちろん単なる情報的なレベルの既視感ではありません。
映像の記憶が肉感的に、情動的に多重露出されてきた
というような既視感を抱いたのです。

それはなぜか似ていた。
爆撃されたサラエヴォ図書館に。
フアン・ゴイティソーロが「記憶殺し」と言った
その場所に。
渚に散乱する記憶。

それはなぜだか似ていた。
ヒロシマの小学校に。
子どもたちがそれぞれの影になって
石や鉄にはりつけられた
そのときの無音に。

                  (辺見庸「それは似ていた」(「文學界」6月号)冒頭二連)

私もまた石巻で、ここで「それ」といわれる建物のモデルと思われる
被災した小学校を見ました。
津波だけでなく火事にも襲われ、焼けただれた姿の鬼気迫る校舎は
たしかに残虐な戦場を実感させるものがありました。
校舎の前にあるプールに溜まっていた赤茶けた水は
血をも想起させたのです。
実際この学校では児童の犠牲者も出ています。

学校の被災の光景は
私のような戦後生まれの者にも、戦争の記憶を激しく触発しましたが
一方で重苦しい無力感をももたらしました。

焼かれても焼かれても蘇る風景。
焼いても焼いても生まれてくる悪夢のシーン。

悪い汗のように滲みだしてきたことばがありました。

「大量殺戮の現場」(引用した詩はさらにそうアナロジーしています)
はなぜつねに立ち戻ってくるのでしょうか?
それが繰り返し私たちの前に現れるものだとしたら
私たちの文明とは歴史とは一体何なのでしょうか?