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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

黒い光(二)

昨日、リンギスの「黒い光」という言葉に、詩として深く感応したことを書きました。070902_1459

この言葉からは、パウル・ツェランの「死のフーガ」に出てくる「(夜明けの)黒いミルク」を連想します。同じく痛苦から出発し、その痛みを何とか形象化しようと考えついた撞着語法だと思いますが、リンギスのそれは「強く能動的な感受性」のなかで、痛みが放ち始める光であり、痛みの自閉性から能動的に蘇生しようとする生命の錬金術によって、痛みが奇跡的に変化した光です。しかしツェランのそれは、強制収容所の中で生きることも死ぬことも出来ない、いわばダブルバインドの存在状況に押しつぶされる、声なき悲鳴のようにも思えます。生命を育む牛乳が、喪の黒に染まっている。あるいは翳っていく。とてもつらい撞着語法です。

私も詩を立ち上げようとするとき、自分独自の斬新な撞着語法が見つかれば、「もうしめたものだ」と感じます。それはなかなか難しいですが、しかし万一見つかれば、たしかに詩の核になると思います。一篇の詩を創造するエネルギーになる。撞着語法とは、人間が本来持っている動物のエネルギーであるつよい生命への欲求、つまりリンギスの言う「情動」を、解放する機縁となるにちがいません。

「強い情動は、つじつまが合わないこと、首尾一貫しないこと、矛盾すること、反常識的なことを見つけだす。強い情動というのは、予測不可能で、実行不可能で、打ち勝ちがたく、推測不能な、そういうことを支持するのだ」(「祝福と呪い」)

詩を書きたいと私がふいに思うのも、リンギスのいう「情動」のなせるわざかもしれません。それは「欲望」や「欲動」ともいえそうですが、どうもそれらの響きは人間臭いのです。それに対し、「情動」は動物たちの魂とどこかで深く通底するものだと感じます。語感の問題でしょうか。あるいは、「欲望」や「欲動」が、金銭や性や名誉など、人間固有のもの(性もそうだと思います)として、使われる概念だからでしょうか。

性急に言ってしまえば、私は、詩を書くことで、動物である自分を解放し、動物的感性を蘇らせ、かれらが鮮やかに知っているはずの世界のリアリティに接触したいと思っているのかもしれません。 

写真は、7月に五歳になる、我が友ニッパー。友人なので?躾はほとんどしておりません。