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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸『瓦礫の中から言葉を─わたしの〈死者〉へ』(二)

あの日、何が壊されたのか。
「故郷が海に呑まれる最初の映像に、わたしはしたたかにうちのめされました。それは、外界が壊されただけでなく、わたしの『内部』というか『奥』がごっそり深く抉られるという、生まれてはじめての感覚でした。叫びたくとも声を発することができません。ただ喉の奥で低く唸りつづけるしかありませんでした。」
あの映像は、決して二次元にあるだけのものではなかったのです。
辺見さんにとって
あるいはそこを故郷とするすべての者にとっては
三次元、あるいは幼年期という時間を奪われる四次元の体験だったのでしょう。
しかし映像の土地に行ったこともない私もまたあの時
「叫びたくとも声を発することができない」
という一瞬をわずかでも確かに共有したように思うのです。

それは何だったのでしょうか。
何か自分の現在の足場や過去にさえも迫りくる破壊の力を感知したのだと思います。
津波に呑まれていくのは遠い他者の故郷でしたが
自分のあるはずもない故郷の喪失のようにさえ感じました。
それほどの恐怖を引き起こした津波の量感でした。
呑まれていく家や映し出されない人の姿は自分の中にある何かのようでした。
しかし遙かな土地でそう思ったのは私だけではないのではないでしょうか。
あれは何だったのでしょうか。
                     
この本は「あれは何だったのか」という
誰しもの胸底に今も澱みながら
日常の時間の下でただ抑圧されていく不定形な問いかけを
誠実に深めていき
私たちがそれぞれの中で言葉にするためのヒントを与えてくれます。
一方で
私たちに問いかけを忘れさせようとつねに抑圧を加えるものをも名指しながら。
「…3.11以降、しがない個々人の生活より国家や国防、地域共同体の利益を優先するのが当然という流れが自然にできてきている。/『個人』は『国民』へ、『私』は『われわれ』へと、いつの間にか統合されつつあります。そして、この国は、われわれは、変わらなければならないと言われ、それが見えない強制力、統制力になって、個はますます影が薄くなっている。3.11以降、内心の表現は3.11以前よりさらに窮屈に、不自由になっています。そのことにわたしはとくに注目しています。」
「個を不自由にしているのは、かならずしも国家やその権力ではなく、『われわれ』が無意識に『私』を統制しているという注目すべき側面があります。上からの強制ではなく、下からの強制と服従。大災厄の渦中でも規律ただしい行動をする人びと。抗わない被災民。それが日本人の『美質』という評価や自賛がありますが、すなおには賛成しかねます。」
「ただ、それ(筆者注:大震災によるPTSD)が癒えたら、そしてそれを癒すためにも、しなければならない作業があります。どうしても考えざるをえないことがある。それはなにかというと、三月十一日の昼下がりにわれわれが見た、経験したことは、あれはいったいなんだったのかという設問を立てることなのです。3.11とはなんだったのか。原発メルトダウンとはなんだったのか……原点にもどって、俯瞰して考えてみて、そして、各々が異なった言葉で答えることがあってもいいと思います。」

最初の引用箇所の「内心の表現は3.11以前よりさらに窮屈に、不自由になっています。」という状況こそが
「3.11とはなんだったのか」という巨大な問いかけに応答することこそが救いであるはずの私たちに
無意識を歪ませるほどの苦しみを与えているのです。