今朝の新聞の
うたう存在という人間の魂の尊厳を奪う、まさに暗黒時代の条例案提出の記事
を読んでから、私はなんだか変です。
すごくがっかりしている自分がいます。
何をそんなにがっかりしているのでしょうか。
恐らく選挙からずっと引きずっていた失望感が顕在化したのです。
自分のどこか深くに流れ続けていた水が、涙であると認めさせられたのです。
こういう結果が訪れないようにと
私もまた毎日車から叫び続けたのでした。
いや、こういう結果が訪れる暗い予感をふりきるために
車の窓から道行く人に呼びかけたのでした。
予感が当たってしまったのです。
原発のことだって叫びに叫びました。
恥も外聞もなく、ただ恐怖にかられて
叫びながら自分の恐怖に向き合うようにして
スピードを上げる車から向かい風に声を奪われながら。
予感が当たりすぎてしまったのです。
かれらは朝鮮学校だってひとひねりでつぶすつもりではないでしょうか。
民族のうたも奪うのではないでしょうか(ただ人として生きるためにうたいつづけたうたを)。
真実をうたう者たちには
反マジョリティの刑罰を、生殺与奪の刃をちらつかせるのではないでしょうか。
すべてのうた、うったえを追いつめるでしょう。
しかし悲観的になってはいけないのです。
一ヶ月の間あるいはこの一年以上悲観的になっていた自分に
出会ってしまっただけなのですから。
悲しい自分との出会いをつみかさね
明日の自分を作っていかなくてはなりません。
天をあおぎ、自分自身のうたを、佇立させていかなくてはなりません。
苦しくても己れの歌を唱へ
己れのほかに悲しきものはない(吉本隆明)