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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

大門正克「あらためて問われる歴史家」

歴史学研究』の月報に掲載された、日本近現代史学者である大門正克さんの論考です。同誌を編集するのは、日本を代表する歴史研究の学術団体である「歴史学研究会」。同会が2010年度大会総会で決議した「朝鮮学校を『高校無償化』措置から除外する日本政府に対する抗議声明」も、会告として本体に掲載されています。こちらも本ブログで近日中に再録したいと思います。この問題が「すぐれて歴史認識の問題である」という大門さんの言葉は、歴史家だけでなく、この国の今を生きるすべての人々が考え抜くべき問いかけではないでしょうか。

あらためて問われる歴史家
                   ──二〇一〇年「朝鮮学校無償化除外問題」を考える
                                                           大門正克

 「韓国併合百年」に当たる二〇一〇年、東京では、八月に国際シンポジウム「『韓国併合』百年を問う」が開かれ、私も報告者の一人として参加した。報告とシンポジウムのなかで私の頭を離れなかったのは、朝鮮学校無償化除外問題だった。
 二〇〇九年末、中井拉致担当相は、政治的な拉致問題を理由に、二〇一〇年度予算から朝鮮学校の無償化除外を求めた。政治家の声高な発言や一部マスコミのセンセーショナルな報道、ネット上の誹謗中傷と、それに抗する無償化除外反対の声が高まるなか、日本政府は、二〇一〇年四月に朝鮮学校を対象から除外して「高校無償化法」を施行し、朝鮮学校無償化の問題については文部科学省内に設置する専門家会議で検証するとした。
 戦後の日本における朝鮮学校の歩みは、占領と日本政府の政治判断に翻弄され、強権的な規制にさらされた歴史にほかならなかった。現存する朝鮮学校は、その後の再建や自主運営、地域の人びとの協力などによって歩みを刻んできた。
 私には、戦後の朝鮮学校の歴史と今回の朝鮮学校無償化除外問題が二重映しに見える。焦点は二つある。容易に払拭されない植民地意識の継続と、子どもの権利に関する認識の乏しさである。
 先のシンポジウムでくり返し議論になったのは、植民地意識の継続の問題だった。たとえば無償化問題でも、ネット上では、「日本人拉致を正当化」、「日本国籍を取得せよ」といった、ナショナルな意識の発露をともなう非難が繰り広げられている。これをどう考えればいいのだろうか。
 この背後には、グローバリゼーションや新自由主義による競争と焦燥感があり。そのことがナショナルな意識を強めている面があるだろう。植民地意識の継続にかかわり、私はシンポジウムで戦後史認識の問題点を報告した。日本の戦後史認識では、総力戦からアメリカ中心の占領へ至る過程が中心になっており、大東亜共栄圏の膨張・崩壊から東アジアの冷戦とアメリカ支配へ至る過程の位置づけが欠如している。この欠如は植民地意識の継続と大きくかかわっており、朝鮮学校無償化除外問題の歴史的な背景もここにある。朝鮮学校の歴史とかかわらせて戦後史をとらえ直すことが、朝鮮学校無償化除外問題の歴史的位置を明瞭にするうえで不可欠だと私は考えている。
 日本政府は、一九九四年にすべての子どもの教育機会と少数者の子どもの権利を保障した子どもの権利条約を批准した。にもかかわらず、朝鮮学校無償化除外問題では条約の誠実な履行を前提にした議論にならない。この背景にも、植民地意識の継続があり、そのことがもっとも弱い存在である子どもに矛盾を背負わせることになっている。現在の日本政府には、朝鮮学校と生徒に対する過去の対応を真剣に反省し、過ちをくりかえさない英断が求められている。
 再びその対応を問われているのは日本政府だけではない。歴史家も問われているのである。
 二〇一〇年は、朝鮮学校無償化除外問題と韓国併合百年が重なることで象徴的な年になった。戦前以来の植民地支配の問題が現在も根強く存在することがあらためてよく見えてきたからである。朝鮮学校無償化除外問題は、単なるニュースの一齣ではなく、すぐれて歴史認識の問題である。戦後の朝鮮学校の歩みや、この問題に対する日本政府と日本社会の反応をふまえ、一人ひとりの歴史家は、日本の近現代の歴史や日本の戦後をどう認識するのか、あるいはさらに前近代以来の東アジアのなかの日本の歴史をどのように考えるのか、以上のことをあらためて問うているのが二〇一〇年の朝鮮学校無償化除外問題なのである。
 歴史研究は過去を尋ねる学問であるが、いつの時代の歴史家も現在という地点から過去を尋ねる点で共通している。現在がどのような時代であり、どのような歴史意識に支えられて歴史研究をしているのか。このことはすべての歴史家にとって共通の関心事のはずである。朝鮮学校無償化除外問題は、現在の歴史意識にかかわる重要な問題だと私は考えている。
 八月三一日、文部科学省朝鮮学校への無償化適用問題に関する専門家会議の報告書を発表した。国の支援金が生徒に還元されていることを点検するなどの審査基準を満たせば適用を認めるという案である。その後、民主党は専門家会議の案を了承する方針を固めたとの報道もあるが(『朝日』九月八日)、九月に就任した高木義明新文相がこの問題の「最終的な決断」は「未定」と述べ、大阪府は朝鮮高校の教育内容に注文をつけるなど(同前九月二三日)、先行きは不透明で予断は許さない。
 日本政府は、何よりも少数者を含めたすべての子どもの権利を認め、朝鮮学校の生徒の無償化を早急に決断・実行すべきである。
 翻って歴史家には歴史家の責務をはたすことが求められている。歴史家の責務とは、歴史的な視点に積極的な意味を見出し、事柄を歴史的にとらえて叙述することである。朝鮮学校無償化除外問題はすぐれて歴史認識の問題であることを受けとめ、この問題を日本の戦後史、日本近現代の歴史、さらには前近代以来の東アジアのなかの日本の歴史に位置づけること、このことが一人ひとりの歴史家に求められている。