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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

許玉汝「ふるさとへの道」

昨年夏、『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』の共同編集者である許玉汝さんが、8月15日を前に、以下のようなエッセイを書かれました。一人の在日コリアンがたましいの旅の中でようやく探りあてた「ふるさと」、沢の水の冷たさ、母の笑顔──。

随筆 「ふるさとへの道」
                                    許 玉 汝

  「朝鮮学校無償化除外反対」を広範な日本の人々に訴えるため、「ふるさと」という詩を書いた日から一年が経った今年の夏、私は生まれ故郷、青森県平川市碇ヶ関(いかりがせき)を生後初めて訪ねた。
 
 63年前、身重であった私のオモニ(母)は、北海道にいるというアボジを探すため、6歳の姉と3歳の兄の手を引いて京都から列車に乗り、何回も乗り継いだ。

  途中、列車の中で産気づいてしまったオモニが、やむなく碇ヶ関で下車し、あてもなくさまよっていたとき、親切に声をかけてくださった方がいた。その方が営んでいた木賃宿にたどり着いたオモニは産婆の到着を待てずに赤子を産み落とした。その赤子がまさしく私だったのだ。
 
  6ヵ月後に北海道に渡り,行商をしていたがうまく行かず、やむなくドブロクを作ったことが「罪」になり刑に服していた父を待つ間、馬小屋で暮らした日々、父の出所後、函館に移り零下20度の浜で私をオンブしたままイカ裂きをしながら私たちを育てて下さった両親。
 
  学校に通うことになった姉が、あまりにものいじめに耐えかねて登校を拒んだ為、東京の朝鮮学校を探して池袋に引っ越した事、空襲で片足になった祖父が京都にいるという便りを聞き一年足らずで京都に戻ったこと、坂の下の半洞窟の家で暮らしながら、祖父の引くリヤカーに乗り<ボロおまへんかー>と京都市内を回りながら生活した日々…
 
  5歳になるまで出生届も出せず、自分の生まれた場所の住所も知らぬまま、青森から北海道、北海道から東京、東京から京都、京都から大阪へと転々と引越しを重ねてきた私たち家族にとって故郷とは一体なんであろうかといつも思っていた。
 
  今年の3月11日、想像を絶する東日本大震災が起き、津波のため故郷を根こそぎ流されてしまった人々の痛ましい姿をニュースで見ながら、私は何かにとりつかれたように思い続けた。(行かねば、行かねば、今、生まれ故郷を探さねば必ず後悔する。)
 
  私はインターネットで見つけた碇ヶ関総合支所に「私の生まれ故郷を探してください。碇ヶ関という村の自炊旅館だったそうです。」という手紙と、自伝史のような詩「ふるさと」をFAXで送り協力を求めた。
 
  交信を始めてから一ヶ月が過ぎた頃、碇ヶ関支所から「お探しの木賃宿跡がついに見つかりました。隣に住んでいた方も見つかりました。着いたらすぐ支所に来てください」という夢のようなメールが送られてきた。
 
  7月9日、東北朝鮮初中級学校での慰問コンサートを無事終えた次の日の朝、私は高速バスで弘前まで行き、奥羽線に乗り換え「碇が関」に到着した後すぐに総合支所を訪ねた。
 
  日曜日だと言うのに支所長さんと、交信を続けていた黒滝さんが迎えてくださった。
 
  碇ヶ関関連の書物や地図、明日の予定表、おまけに青森リンゴやジュースばかりか、生まれ故郷での夜を楽しんでくださいと70匹もの平家蛍までガラス瓶のホテルに入れて持たせてくださった。あまりにもの手厚いもてなしに言葉が出なかった。
 
  翌朝、支所長さんと一緒に木賃宿の跡地に向かった。小高い山のふもとの閑静な場所に跡地はあった。跡地の入り口には江戸時代に山から引っ張ってきたという白沢の水場が残っていた。手を伸ばし沢の水に触れて見た。
 
  冷たい!手のひらで水をすくい一口含んでみると、なんともいえない感慨に胸が震え優しかったオモニの笑顔が浮かんだ。
 
  支所長さんと一緒に木賃宿があった頃から隣に住んでいたという花岡チエさんにお会いした。花岡さんは60数年前のことを一つ一つ思い起こしながら話してくださった。
 
 花岡さんのおかげで木賃宿の御主人の名前が外崎さんだったことも、この木賃宿が旅館代の払えない貧しい人々をいつでも迎え入れてくれた有難い自炊旅館であったことも知ることが出来た。
 
  終戦間もないあの時代に、一目見れば朝鮮人であることが分かったであろうに見ず知らずのよそ者を暖かく迎えてくださった外崎さん。私の命の恩人、感謝してもしきれない。貴重な証言をしてくださった花岡さんの手を取り心から感謝した。
 
  驚いたことはそればかりではなかった。木賃宿の屋号だけはどうしても探せなかったのだが、三笠食堂で食事をしていた時、御主人の阿部さんが思い出して下さったおかげで木賃宿の屋号が「大黒屋」であることまで判明したのだ。
 
 その後、支所長さんの案内で碇ヶ関の名所をひとつひとつ回りながら私は思った。碇ヶ関の人たちは何故こんなにも親身になってくれたのであろうか?「探せませんでした。」の一言で片付けることもできただろうに、詩「ふるさと」を読んで、同じ郷里を持つ者として他人事とは思えなかったと一緒に泣いてくださった黒滝さん。自分の事のように心配してくださった総合支所の皆さん!

  碇ヶ関の人たちのおかげで無事この世に生を受けたばかりか、人生の黄昏期にまた大きな恩恵を受けてしまった私。母のように心優しい人々が住む村が私の生まれ故郷であったことが何よりも誇らしく嬉しい。
 
  瞼を閉じれば碇ヶ関の人々が、三笠山や平川が、白沢の水場が、リンゴ畑が目に浮かぶ!紛れも無く碇ヶ関は私のもう一つのふるさと!
 
  誰しも故郷を持つが私たちのように、異国で生まれ育った者にとって故郷とは一体どんな意味を持つのだろう。私たちの国が植民地にならなかったなら私が日本で生まれるということはありえなかったし、貧困と差別がなかったなら根無し草のように流されるままに生きることもなかったはずだ。
 
  私は自分の生まれ故郷を探していたが決してそれは場所ではなく、私のルーツである父と母の人生そのものを知りたかったからかも知れない。二度と奪われてはならない祖国と、国を奪われた民がたどらねばならなかった人生を、後世に伝えなければならないという使命感があったからかも知れない。
 
  ウリハッキョを守るため書いた拙い一編の詩がもたらした生まれ故郷との再会。私はこの日の感激を胸に、まだ見ぬまことの故郷を必ずや訪ね、亡き父母の霊前に花を手向けたい。そして碇ヶ関の人々のように国籍や民族を越え1人の人間として隣人を愛し朝日友好の架け橋になりたいと思う。

                                                                   2011年8月15日