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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

『ニーチェの馬』(監督・脚本タル・ベーラ、ハンガリー)

タル・ベーラ監督の『ニーチェの馬』を観ました。
心に重く、深くのしかかるような映画でした。N
しかし、だからこそ身の内から思いがけないカタルシスさえ感じました。
モノクロの画面からこちらの内面に直接にかかる
人間精神そのものの重さ、人間の時間そのものの深さ、
そして映像の光と影の哲学に、
圧倒され続けました。

一言でいえば破滅の「物語」です。
ニーチェの馬」というタイトルは
1889年、哲学者ニーチェが発狂した日のエピソードから付けられたもの。
その日彼は街角で鞭打たれる馬の首筋に抱きつき涙したそうです。
それは狂気の始まりだったとされますが、
真偽のほどは定かではないようです。
しかしそのエピソードがタル・ベーラの魂を突き動かしました。
正確には「その後、馬はどうなったのだろう」という問いかけが。

馬には飼い主がいたという設定です。
その飼い主と娘は窓から一本の木だけが見える荒野の家に住み
二人だけで極貧の生活を送っています。
家の中にもぎりぎりの生存のための家財と食料しかありません。
そして彼らの日課はつねに決まっています。
娘は朝起きると家の前にある井戸で水を汲み、
ジャガイモを茹で、
父親と差し向かいでジャガイモ一つきりの朝食を摂るのです。
食事を終えると二人は馬を小屋から引き出し、
馬具を載せます。
ただそれだけの日々の繰り返しです。

そう書けば何か牧歌的な暮らしであるようにも思えます。
しかしこの映画ではそうではありません。
外は間断なくつねに一方向から強烈な風が吹き続けます。
風の音は人の悲鳴にもきこえるほどの鋭さです。
そして風はつねにおびただしい黒いものを白い光の中に吹き散らしています。
それは木の葉ではなく、
何かの破片のように見えます。
そしてそこには人影は全くありません。

映画に他者が登場するのは二回だけです。
一度目は、「我々は世界を破壊したが、それは神の罪でもある」という
まるでニーチェのような箴言を切迫した声で語り続ける謎の訪問客。
(彼の話から隣町に恐ろしい破壊の出来事が起こったことが暗示されます)
二度目は、どこからか馬車に乗ってきた数人のジプシー?たち。
「水だ、水だ」と井戸に群がるかれらの様子からも
世界では何か大変なことが起こっていることが分かります。

映画はそのような世界のだた中の、
小さな家の中での父娘の六日間を描きます。
世界では破滅が進行し続けますが、
二人は生存のルーティンワークを続けています。
まるで馬の苦役のように。

この映画は
二回の「他者の訪問」以外何も起こりません。
外の世界は神と人間の共犯によって破滅し続けています。
二人からも水や食料や馬といった生存手段が
少しずつぽろぽろと失われていきます。
その間も外は白い光と間断ない強風。
夜は闇。
家の中はランプの光だけ。
父と娘の会話も殆どありません。
しかしぎりぎりのすべては何と美しく描きだされているのでしょう。
貧困という言葉を忘れさせるほど
人間というもののかけがえのない聖なる生存がここにあります。
それは少しずつ脅かされているのですが、
しかし二人の生存は決してみずからを放棄しないのです。
それは世界の破滅に抗うでもなく諦めるでもなくじっと堪えています。
少しずつ確実に破滅に向かっているにもかかわらず。

六日目の昼にふいに闇が訪れます。
風もぴたりと止みます。
世界が完全に息絶えたのでしょうか。
水がなくなったあとで、
ジャガイモは茹でられなくなりかたいまま皿に置かれます。
しかし右手の不自由な父は左手でかぶりつき、
娘は単なる食欲不振のように皿に戻します。
それは少しずつ破滅に向かっている証なのですが、
しかしそれでもかれらは黙々と生存を続ける意志を失いません。
ランプに照らされた彼らは最後の聖家族のように思えます。

破滅へ向かう二人の六日間は、まさに「逆天地創造」の時間と言えます。
しかし私たちの誰もがそのような時間を生きているのだと監督は語ります。
「毎日、我々は同じことの繰り返しと感じているが、実は毎日少しずつ違っている、確実に人生は短くなっています。日々、だんだんと人は弱まり、最後は靜かな孤独と共に終末のときを迎え、消えてゆきます。これは私も皆さんも同じことです。本作はこのような問いかけに触れたかったのです。」

3.11あるいは3.12以後の只中にいる私たちに
これからも生き続けることの裸形の意味を
魂の次元でもたらしてくれる映画です。