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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

マイノリティ

今朝の京都新聞朝刊の一面にあったImage329_2
「高校無償化、朝鮮学校除外を容認」
という記事にショックを受けました。
部外者の私でさえ心痛んだのに、
当事者の方々はどんなに絶望感を抱かれたことでしょう。
政治的な思惑は私などには分かりませんが、
朝鮮学校がどういうことを教えているのか、必ずしも見えない中で」
という首相のコメントの中の
「必ずしも見えない」という言い回しが詩人としてとくに気になりました。
曖昧模糊であるためにかえって誤解を招きかねないし、
それこそ自分を傍観者にできる
日本語の婉曲表現の悪用だと思います。
「見えない」なら「見てみよう」って
なぜ動こうとしないのでしょうか。
私などですら京都朝鮮中・高級学校を見学させて頂いて、
生徒さんが日本の学校以上に日本のことを真剣に学んでいるのに驚きましたし、
逆に日本の教育は、日本人はどうすべきだろう、と
自分自身を考えさせる契機を与えられたのです。
もっと優れたトップの方が見られたら
どんなにか私たちの蒙を啓くような
見解を抱かれることでしょうか。
ぜひこの機会に学校へ足を運んでいただきたいです。

先日金校長先生がして下さったお話でも
日本のカリキュラムに極力合わせる教育をしているとのことですし、
自民族の国土での他民族の民族教育が行われることを保障するのは
国連の条約でも義務化されているそうですし、
もちろん日本国憲法でも「ひとしく教育を受ける権利」
は明文化されています。
しかしそうした制度的・法的なこと以上に、
自分がより自分らしくあることとはいかなることか
そのためにはどうしたらいいのか
という問いかけを
今日の報道はこの国に生きる私に
あらためて突きつけてきました。
じつは先日の京都朝鮮中・高級学校の訪問から
私の底にはその問いかけが海鳴りのように響いていたようです。

そこから考えさせられているのは
「自分とはなにか」ということ。

私とは
のっぺらぼうな抽象的な存在ではなく
風土や歴史がつねに編み上げる「今ここ」という中心に存在する
とてもとても具体的な、たった一人の者です。
その上で私はたった一人のかけがえのない者でありながら
人類や民族の一人である者でもあるはずです。
その後者としての私とは
愛すべき他者との関係に抜きがたく
生まれながらにして巻き込まれてある。
とりわけ苦難を経て
この私たちという存在を創りだした
膨大な死者を含むその人々に対しては
少なくとも無意識に無限の責任を負わざるをえないはずです。
それは意識で否定してもだめでしょう。
民族の文化を学ぶとは
そうした他者への無限の責任に応答する自分
をそれに値する者として創り上げるために必要なことだと思います。
とりわけマイノリティにとって
後者としての自分こそが
ともすれば負けそうな、前者としての自分を支えてくれるはず。
「死ぬ日まで天を仰」いで生きていくために。
そして
よりよく生きる人とはみなマイノリティではないでしょうか。