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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

6月6日付北海道新聞夕刊 辺見庸「幻燈のファシズム ──震災後のなにげない異様」

辺見庸さんの新稿です。現在立ち込める不可視の霧。そこに映る奇妙な影絵。しかしこれ以上私たちは、みずからの不気味な影を揺らがせてはなりません。

6月6日付北海道新聞夕刊
   幻燈のファシズム ──震災後のなにげない異様
                                             辺見 庸

 暮れおちるまえに相模湾の防波堤をあるいていたら、つかのま、いまが朝だか夕だかわからなくなった。黒い叢雲(むらくも)が低くたれこめていて、水平線と雲はほとんど境をなくして融けいっている。太陽はぶあつい雲の奥にくぐもり、もうろうとした光が差すというより、ときおり、とろりとろりと海原にたれていた。雲と海面のあわいからカモメとカラスがにげるようにしてばさばさと陸側に飛んできた。防波堤にそうてどこまでも立ちならぶコンクリートの電柱のようすがどうもおかしい。陸側にだいぶかしいだり折れたりして見えるのだ。はっとして水面に目を転じると、よわい陽光を浮かべているあたりがなんだかあやしい。ゆっくりともりあがっている。その近くの海面は逆にえぐられて黒々と陥没している。おなじ海原で隆起と沈降がこもごもおきているではないか。足がすくんだ。
 もりあがった水の斜面を数人のサーファーがすべりおりていった。あたりまえの景色なのに、ふしぎな影絵におもえてしかたがない。波音にまじり声がきれぎれに聞こえる。歓声か悲鳴かすぐにはわかりかねた。夢のさめぎわのように、こころもとない。胸に満ちるものがあり、目頭があつくなった。大震災後、感覚に失調をきたしているのは、わたしだけではあるまい。揺れと大津波のフラッシュバック。破壊と喪失のとめどない悲しみ、不安。悼みと虚脱。原発渦のなか、せまりくる次の大震災。あてどない未来・・・。人びとの情動は、おそらく戦後もっとも大きなゆれ幅で日々うねりをくりかえしている。知りあいの古老によれば、いまの社会的心状はむしろ戦時につうじるものがあるという。ものごとは国家、地域、集団、組織優先が当然とされ、生身の個人はのどもとまででかかった異論を呑みこんでしまう。
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 教員に「君が代」の起立斉唱を義務づける条例案が大阪府で提出されたのはそんなときだった。複数回違反すれば懲戒免職とするのだそうだ。おどろいたのは、その恫喝的で戦時統制的な中身だけではない。あたかも条例案提出をすかさずあと押しするかのように、君が代斉唱時の起立を命じた校長による職務命令は「思想・良心の自由」を保障した憲法十九条に違反しないという判断が、最高裁の上告審判決で示された。うたえと命じられているのにあの歌をうたわない者、立てと命じられているのに起立しない個人は、社会から排除してもよろしいと言わんばかりだ。惘然(もうぜん)として天をあおぐ。大津波の映像をはじめてみたときの、信じがたく、よるべないおもいがぶりかえした。大震災と原発事故でかつてない心的外傷を負ったこの国は、だれもそうはっきりとは自覚しないにせよ、今風のファシズムのただなかにいるのではないか。
 この件について、世論はしかし、いたって静かである。毎日のように震災に負けない日本人のつよさ、がんばり、きずな、おもいやり、団結がこれでもかこれでもかと報じられ、「ふるさと」や「上を向いて歩こう」がおもいをこめてうたわれ、他方では、さしもたくさんの人の命をのんだ海で若者たちがサーフィンに興じ、競艇も競馬も競輪も客足をとりもどしつつある。被災地からはなれた場所での日常復元の速度はあきれるほどである。七十年以上まえに石川淳が小説「マルスの歌」に記したスケッチをふとおもいだす。「たれひとりとくにこれといって風変わりな、怪奇な、不可思議な真似をしているわけでもないのに、平凡でしかないめいめいの姿が異様に映し出されるということはさらに異様であった」。日本的ファシズムの淡彩描写でこれほど虚をつく文はない。日本型ファシズムの特質は、人があえて争わない諧調にあり、表面はとても異形には見えないところにある。石川はそれを戦争の実時間にあって勇気をもって活写しえたじつに数少ない作家である。石川のいうなにげない異様を、わたしはいまに感じる。
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 かつて君が代をうたわなかった先生たち、起立しなかった人びとが、いまはすっくと立ち、明らかな声にしてうたうのだそうだ。そのような人びとの内面はあまりにもつらく、たわんではいないか。そうさせているものはなにか。あの歌をうたわないですむ会社や組織に同質の異様はないのか。うたいたくない者に直立不動でうたわせる社会はまっとうだろうか。石川淳ファシズムの季節の光と影のゆがみについて書いている。「ひとびとの影はその在るべき位置からずれてうごくのであろうか。この幻燈では、光線がぼやけ、曇り、濁り、それが場所をゆがめてしまう」。問題はむろん、テレビが放(ひ)りだしたガスのような大阪府知事ひとりにあるのではない。わたしたちひとりびとりの、あるべき位置からのずれを、醒めて見つめるべきではないか。