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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

いっとき深い傷が入ってこそ

一昨日、現代詩人会の西日本ゼミナールが大阪で催され、
私も参加しました。
そこで講演者の中江俊夫さん(大変久しぶりにお目にかかりましたが、お元気そうで何よりでした)が
具体的な事物や現実との関係に触発されて詩を書くことの大切さ
を言っていらしたのですが、
私もまた懇親会で二つの詩(「鳳仙花のように」(『新鹿』」より)・「ハッキョへの坂」(「朝鮮学校無償化除外反対」リーフレットより))を朗読する際、
自分にとっては紀州・熊野と朝鮮学校の除外の問題が
今詩を書かせる二つの具体的な現実だ
というような口上を少ししました。
それが目の前でみつめる人々にどう受け止められているか分からず、
また二番目の「ハッキョへの坂」を読む時には問題がアクチュアルなこともあり、
当日熱のあった身体はさらに重力がかかったように、
声は思わずうわずってしまった気がします。

しかしいったいどう受け止められたのでしょう。
朗読の後、この問題について話しに来てくれた方はほとんどいません。
もちろん懇親会という席は楽しく交流するための席ですから仕方ないとは思います。
私自身も旧交を暖めるのは楽しかったですし。
でもやはり少し寂しい気がしました。
けれどこの場は仕方ないとしても
これまで長年親しく交わってきた友人において
「どうしてこの問題に関わり続けているの」
「この問題は詩とどう関係するの」
と身をのりだしてくれる人は残念なことに少ないですね。
もちろんそれはただの無関心である場合もあるし、
私たちの関係に傷がつくのではないか、という優しさから触れない場合もあるでしょう。
何か論争のようなもので双方が傷つくと思っているのかもしれない。
しかし大切な問題で話し合うことは
傷つくというよりは自分をさらけだし、相手を知ることであるし
たとえ傷でも
いっとき深い傷が入ってこそ友愛は本物になるのではないでしょうか。

エリュアールがエッセイ「状況の詩」(1951)の中で引用しているゲーテの言葉です。

「現実は詩的感興をそこなう、などといわないでもらいたい。陳腐な題材でも確実にそこになんらかの興味ぶかいものを精神が発見するなら、その人はまちがいなく詩人だといえる。現実は、動機、出発点、すなわち詩の核をつくってくれるはずだか、それを、美しくいのちのかよう完全なものに仕上げるのは、詩人の仕事である。」

その引用の前にあるエリュアール自身の言葉もいいです。

「普通、人間は、自分の身近にいる人びとにだけでなく、会ったこともない人びととその上に起きる事件に、また自分がひきおこす事件に、生命を移して一つになる。詩人は、そういう生命の再生にこころを燃やす。」

詩人にとって、生命の再生とは、具体的な問題に「こころを燃やす」こと。
詩人は日常のつめたく死んだ言葉を
現実との関係における燃焼の、つまり「傷」のエネルギーをかりてはじめて
詩として昇華できるのだと思います。