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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸「瓦礫の中から言葉を」を見て(六)

3.11を境に、少なくとも一週間から十日、テレビからコマーシャルが消えた。
人に優しくしようみたいなキャッチフレーズが
気が狂わんばかりに何度も何度も流されていく。
今度は優しさを押し売りしてくる。
あれは裏返せば
3.11以前の予感のない表現世界と変わるところがない。
みんなでとにかく人を出し抜いても金儲けしようと言ってきたじゃないか。
あなたがたの表現世界はそのことに奉仕してきたではないかと言いたい。
投資に乗り遅れるな、ハイリスク・ハイリターンと言ってきたではないか。
そのための映像を、言葉を作ってきたではないか。
詩人たちも無警戒に作ってきたじゃないか。
誰がそれに異を唱えたか。
人が買い占めに走る、それを今頃になって醜いという。
でもその姿は3.11の遥か以前からあったじゃないか。

「思いは眼にみえないけれど、思いやりは眼にみえる」といったたぐいの
あれらのコマーシャルがどうしてあれほどいやだったのかが
辺見さんの断言でよく分かりました。
あのコマーシャルで主張されていたのは
内部や内面の欠けた優しさだったのです。
あるいはあれらに隠されたメッセージは
内部や内面などいらない、それらこそ余計なものだ、
互いを理解し合うこともいらない、ただ優しくあれ、
奉仕の精神に従う人形として優しくふるまえ、
その方が心穏やかだからだ、
ということだったのかもしれません。
あの画面の明るい虚ろさがどこか不潔で、いやだったのですが
それは3.11以前の表現世界をただ不遜に脱色させただけもの
だったからなのです。

そこには持つべき予感というものを、むしろ排除するものがあった。
破壊に至った時、それを予感できなかった責任は誰が問われなければいけないか。
それは私であり、文を紡ぐ者たち、自称であれ他称であれ、大家であれ名のない者であれ、詩人たち、作家たち、全員が責めを負わなければならない。
私たちは予感すべきだった、書くべきだった。

詩人たちは破壊を予感できなかっただけでなく
それ以前に、破壊を予感すること自体を恐れていたのではないでしょうか。
破壊を予感するために詩人の群れから離れ
孤独と感受性を研ぎ澄ませることを、忌避していたのではないでしょうか。
おおよその詩は自分を護るために書かれていました。
詩人は、詩人だから他者を見ませんでした。
詩人は、詩人だから社会を見ませんでした。
詩人は、詩人なのに言葉を畏れませんでした。
いつからか詩の世界は
詩という名で護られた揺るぎない世俗と化していました。

僕は怒っているが、怒ることは無意味だと思う。
僕は書こうと思う。
(以下メモ書きが乱れ、表現通りではないと思います。大切な箇所ですが)
瓦礫の山が焼けただれた
汚水が泡立つ放射能の水たまりに漬けられた瓦礫の中に
私たちが浪費した言葉たちの欠片が落ちている。
それをひとつひとつ拾い集めて水で洗って
もう一度抱き締めるように丁寧にその言葉たちを組み立てていく。
そのことは可能ではないかと思う。
焼けただれ撓んで水浸しになった言葉をひとつひとつ
屈んで拾い集めてそれを大事に組み立てていく。

言葉は単なる道具ではない。
新しい言葉とはとりもなおさず、人に対する関心の表れである。
自分たちが、失われた命が、世界のどういう位置にいるのかを
分からせてくれる言葉を発することができれば、
人の今生きている魂も、宙に浮かぶ霊たちも
もっと安まるのではないか。
その言葉を持ち合わせていないから、
こんなにも不安で、切なくて、苦しくて、悲しくてそして
こんなにも空漠としている。

新しい言葉とはとりもなおさず、人に対する関心の表れである、という定義には
本当に救われた思いがします。
人に対する関心、自分自身や他者や死者へ向かう欲望。
そう、それが言葉の本来の姿なのです。
3.11以前の私たちの、自分自身を見失い、他者や死者を忘れた言葉は、
つまりおのれの魂を売り、すべてを商品化していた言葉は、
今、放射能の水たまりに漬けられ
むしろ安らいでいるのかもしれません。
浪費や消費の回路での果てしない酷使からようやく逃れられ
言葉は一度死したがゆえに、これからこそ本来の姿で蘇生するかもしれません。
言葉は傷つきつつも、いえ傷ついたがゆえに、悲しみ苦しむ生者や死者を悼み
隠された世界の秩序に位置づけ直す力があります。
つまりその力によって喪は可能になるのです。
真の喪は真の詩と共にあるはずです。
私たちは喪に服すために
ずっとそのための新たな言葉をさがしあぐねているのにちがいありません。