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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

「詩を書くという行為を受け継ぐ──追悼・吉本隆明」(「現代詩手帖」5月号)

現代詩手帖」5月号に吉本隆明さんへの追悼文を書きました。

詩を書くという行為を受け継ぐ──追悼・吉本隆明 Gt
                                河津聖恵
  

 去る三月十六日吉本隆明氏が亡くなった。3.11からほぼ一年後である。氏はこの一年間、病を押して思想家としての発信を続けていた。四半世紀前の「『反核』異論」の主張を曲げることなく、「原発廃止は素人の暴論であり、人類の文明の否定を意味する」として、「総懺悔的」に反原発へと傾く世論に一石を投じた。その波紋がいまだ言論の海にざわめき止まぬさなかでの巨星の消滅。だが波紋が鎮まるどころか、むしろ再稼働やがれき受け入れが一気に進もうとする動きの中で、氏の原発への見解はあらためて賛否両論を湧き起こしている。同時にかつての新左翼運動に対する影響やオウム真理教への擁護を巡っての議論も再燃した。いずれにしても逝去後「吉本隆明とは誰だったのか」という問いかけは、「吉本隆明という現象あるいは表象とは何だったか」、さらには「吉本隆明という現象を支えた戦後の精神構造とはいかなるものだったか」という問いかけへ深まろうとしている。
 だがそれら「吉本隆明という現象を追う現象」に欠落するのは、「吉本隆明が何を書いてきたか、言っていたか」という思想の実像の解明である。だがそれを正確に言い当てることはほぼ不可能に近いだろう。氏の言説と文体は、多かれ少なかれ言葉自体に向き合っているから、いわゆる言論の場には原理的に乗り切らない。このまま逝去という断絶によって、残された言葉は破局の世界に放たれた儚い火花として消えてしまわないか。それらの言葉にある時代に抗するリアリティは忘れ去られはしないか。
 今、私たちが試みることができるのは、「吉本隆明の言葉に自分は何を触発されてきたか」を語ること、あるいは「これからいかに触発されていくか」を模索すること、に尽きると思う。氏の逝去は深い悲しみをもたらしたが、この悲しみを、氏の出発と核心とも言える詩作品や詩論に対し、私たちが裸形に向き合うための契機とすべきだ。
 一九六四年に書かれた「詩とはなにか」(『現代詩文庫・吉本隆明詩集』所収)をあらためて読むと、この詩人がいかに詩を書くという行為を、社会という外部と自分自身という内部との、アクチュアルかつ原理的な葛藤においてとらえていたかがよく分かる。次の「詩論」には今でも、あるいは今だからこそ深く首肯しうる的確さがある。
「わたしがほんとのことを口にしたら、かれの貌も社会の道徳もどんな政治イデオロギーもその瞬間に凍った表情にかわり、とたんに社会は対立や差別のないある単色の壁に変身するにちがいない。詩は必要だ、詩にほんとうのことをかいたとて、世界は凍りはしないし、あるときは気づきさえしないが、しかしわたしはたしかにほんとのことを口にしたのだといえるから。そのとき、わたしのこころが詩によって充たされることはうたがいない。」
「詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口に出すことである。」
「ほんとのこと」とは言わば日常を揺るがす真実のこと。散文でそれを口にすれば世界は凍り、発言者は拒絶される。だが社会から「孤立」し、比喩や象徴という次元で書く詩人は、誰にも邪魔されず(それは多くは「理解されず」をも意味するが)「ほんとのこと」を口に出来る。生命の奥からあふれる「自己表出」(言葉以前にある叫びが生み出す表現)の力で、「ほんとのこと」を言葉の中から輝かせることが出来る。
 詩は直接的に世界を凍らせはしないからこそ、抵抗の永遠の方途となるのだ。私たちが今後氏が残した仕事に学ぶべきことは、『言語にとって美とはなにか』にあるような、比喩をめぐるミクロな知的感覚に詩人の皮膚を触発されること、そしてそこからそれぞれ新たな詩的痛覚を切り拓くことだと思う。少なくとも現代詩だけは、吉本隆明をマクロな現象としてカテゴライズしてはならない。
 今、巨星の去った場所は深く抉れ、無数の言葉の影の火花を上げている。その不在の場所から詩の謎と比喩の秘密を受け継ぐことは必ず出来る。私たちは存在の欠落あるいは人間という傷を、言葉という根源的な次元で吹き曝されて詩を書く、という行為を詩人にたしかに教えて貰ったのだから。もう一度、詩という新鮮な光の血を、魅惑的な影の声をこの世へ言挙げしてみよう。己れの歌(「苦しくても己れの歌を唱へ/己れのほかに悲しきものはない」)を、何度も花火のように打ち上げていこう。詩人亡き後さらに、詩の原初へ向かうがごとく深まっていくこの世の闇の中で。