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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸「瓦礫の中から言葉を」を見て(五)

見たこともない荒ぶる光景を見ながら思いついたのは、
アドルノが言った言葉。
アウシュヴィッツ以降に詩を書くことは野蛮である、と。
ユダヤ人たちは、信じがたいほどの殺戮という苦難に遭いながら、アドルノはこう語ったが、これはどういう意味なのだろうと。
前からアドルノの『文化批判と社会』を読んでいながら、よく分かっていなかったわけだ。
われわれのコミュニティやソサエティが持っている
言語を含む文化というものを
アウシュヴィッツを前提しないで
その苦難と残虐と殺戮というものを通さないで見た場合
それを平気で美しい詩を書くことができるのか。
世界がここまで来てしまったのに、なおかつ美しい詩を書くのか。
あるいは、かつてわが国でもそうであったように、
社会とも、世界とも、世界のいかなる悲劇とも一切関係のない、
真綿でくるまれたような幸せを詩とするのか。
つまり、この一大悲劇を表現する私たちの文化というのは、
3・11以前にあった文化と今後も同じであっていいのかという設問である。
それは、アドルノの警句にどこかで導かれている気がする。

アウシュヴィッツ以降に詩を書くことは野蛮である
という言葉は
今こそとてもまじかに
魂のくらがりのような所まで響いてくる気がします。
アウシュヴィッツは国家による犯罪で
震災は自然災害で、原発事故も意図的なものではないという意味では犯罪ではないですが
けれど
今回の悲劇の光景を直視してやがて心深くににじむのは
アウシュヴィッツのあの絶望的な虐殺のシーンと
いかほども違わない酷薄な影絵のようなものです。
かつて映画「夜と霧」の映像を見た直後、
世界のすべてがモノクロと化したように思えましたが
震災の光景も同じです。
映像に色はついていても、記憶に色は残りません。
色も言葉だとしたら
荘厳な地獄は色さえもよせつけないのでしょうか、
まるで人間のいない古代に降っているのかのような雪もまた
神話のように私たちを寄せ付けません。

そんな言葉を絶する光景がこの世に生まれてしまった以上
詩は、言葉は、そこに向き合わざるをえないのではないでしょうか。
たとえそれが沈黙や絶望をするためであっても、いえそうだからこそ
人間が生まれ直すために。

ふと飛びますが、辺見さんは次のような内容も語っていました。

絶望する、絶望できるというのは人間のひとつの能力である。
絶望・忌憚を浅いままに終わらせないで、もう一段深めていく。
悲しみを深め、
魂の悲しみの質に合った言語で表現することができれば
それが絶望から這い上がる糸口になる。

ホモ・パティエンス(苦悩する人)という
人間のもうひとつの定義があるそうです。
「夜と霧」の作者、ビクトール・フランクルの言葉。
フランクルは、人間は、苦悩や絶望をするからこそ、あるいは出来るからこそ
人間なのだと説きました。
絶望するからこそ、死があるからこそ、人は生きることができるのだと。
ホモ・ロクエンスとホモ・パティエンスという
人間にとっての二つの本質が重なれば
人はすべてを失っても生きることができるのではないでしょうか。
本当は絶望と言語によってこそ、
私たちは生かされる存在ではないでしょうか。それが希望ではないでしょうか。