息もつかず一気に読んだ。
2009年12月4日に起こった、在特会による京都朝鮮初級学校襲撃事件が象徴するよに、
昨今日本の各地で、ヘイトクライムが勃発している。
この本は、ヘイトに加担してしまう元在日韓国人の若者と、
ヘイトに挑む在日朝鮮人の若者の
二人の主人公の切迫した心理過程を、刻々と描き出していく。
ここに充ちるのはタイトル通り「前夜」だ。
物語は、「ファシズム前夜」から「対話の前夜」への架け橋を、模索していく。
読みながら、明けない夜の分厚い闇を、あらためて突きつけられた。
それは新鮮でもあり、息苦しさでもあった。
そこをくぐり抜けていくような気分になった。
主人公の一人ポンチャンは、レイシストたちに一人立ち向かう在日朝鮮人。
その過去から次々押し寄せる未来の悪夢に立ちすくむ。
対決の朝、
ヘイトクライムの行き着く果ては、アウシュヴィッツであるという予感に襲われる。
「電車は荒川鉄橋の上に停車した。水面に朝の光が射してキラキラしていた。夢の影が、水面の煌めきを、ナチスの反ユダヤ暴動・水晶の夜の連想へと誘った。」
「収容所をつくった連中も、ZTグループも、そんなことはお見通しだ。奴らはおれをあざ笑いながら、楽しそうにみな殺しを叫んでいる。収容所の目的は絶滅だ。夢はまだ終わらなかった。スンヂャはまだ生きていた。いつでも殺せる者として。死が犠牲にならない死に直面して……。そんな例外状態で生きねばならぬ存在として、鉄条網の向こうで叫んでいた。」
これは私自身が、
かつて在特会の初級学校襲撃事件の動画を見て抱いた、
絶望的な未来への予感そのものである。
さらに当事者である作者の言葉は、肉体的なおののきをまとっている。
襲撃のシーンだけでなく、
そこに至る心理のリアリティに、私の胸は締めつけられていった。
ついに「自爆」を覚悟して乗った車内―。
「ボンチャンはどうしようもない疎外感に襲われた。車内の白々しいほどに平和な空気。ここにおれの居場所がない。ここにいてはいけない存在として、存在していることの寄る辺なさ。この人たちはZTグループを知っているだろうか? ヘイトに苦しめられている朝鮮人がいる。朝鮮学校の生徒たちは政府と行政に公然と差別され、その親たちは子どもを人質に取られて、毎日頭の上にナイフを吊り下げられているような恐怖のなかで暮らしている。そんな朝鮮人がいることをどう思うだろうか? いや関係があっても、ないように暮らせる人たちのなかで生きなければならないことの悲嘆……。」
このようなボンチャンの行き場のない「絶望」に対し、
作者が突きつけてみせた「希望」のありかは、
レイシストの一員となってしまったもう一人の若者トモヒロの「絶望」である。
自分が在日韓国人であると知って陥った絶望から逃れるために、
「日本人であることを証明するために」と夢遊病のようにヘイト集団に吸い寄せられ、
ヘイトの快楽を知ってしまうトモヒロ。
「〈菊花逍遥〉の朝、浩規は迷っていた。確かに定例会での菊花の話に揺さぶられた。「日本人であることの証明」「無償の行為」「生の拡充」とかいう言葉に惹かれた。自分のなかにたまり続けている爆発寸前の不満や不安、焦燥を払いのけて、生を拡充させたい、だが、「ゲリラ的報復戦」などという、自分の気質と隔たった活動への怯えがあった。」
「暴力への怯えは、高二のときの福田からの暴力で核となり、父に側頭部を蹴られて脳震盪(しんとう)を起こしたことで増幅され、意識と躰の奥深くに巣食っていた。けれど浩規は、メールを受け取ったとき、行くつもりになっていたことを記憶していた。どんなことでも、呼びかけられるのは嬉しかった。」
「警視庁の腕章をつけた私服刑事が、ちょっと菊花さん、と止めに入る。なんだ、これは道路交通法違反だろ! この店を営業停止にしろ! まあ、まあ菊花さん。これ以上やると、うちらも対応しなきゃならんので、これくらいに、ね。
浩規の怯懦(きょうだ)が、菊花への驚きと羨望に変わる。何をやってもいいんだ!」
「生まれて初めての快感が浩規の全身を刺激していた。この快感は自慰の射精の瞬間、脱糞するときの解放感よりもすごい。あいつらおれに怯えている。夜勤ラインの無力感。ヒステリー青線正社員の八つ当たり。人事の勝手な要求。卑屈な就職活動。親父への嘲り。お袋の愚痴。そんなものは無意味だ! 忘れろ! おれ自身が生きるために。奴らを、殺せ! 殴り殺せ! みな殺しにしろ!」
「『殺』という文字が『快』という文字と絡み合い、なんとも言えない形になって、頭の中をかき回して、全身を刺激しながら駆け巡っている。そうだ、おれは日本人だ! だから、朝鮮人を憎むんだ! 正義の行動! 生の拡充! 快感!」
この国の歴史と現在から、同じ闇の重さを背負わせられている二人。
だがやがてかれらは両極の方向から
ついに同じ前夜の底で巡り会うのだ。
物語は、トモヒロとボンチャンの父親との対話の始まりで終わるが、
作者は「希望」をあえて読者の想像に託している。
「前夜」はまだ始まったばかりであり、これから共に作っていくものだと。
「物語を紡いでいるあいだじゅう、窒息しそうな恐怖に襲われ続けていた。いったん物語を閉じたいまも、ますます息苦しさはつのっている。有毒ガスの濃度はあがり続けている。だからこそ、物語に終わりはない。また私が書くかも知れない。いやカナリアになった誰かが、書いてくれること、それを心から願っている。」(「あとがき」)
切れかけながら闇をようやくおしのけている外灯のような
生きながら死にかけている若者たちの心。
無数のそれらを星座のように繋ぐものは何か。
この一書から真剣に思いを馳せてみたい。