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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

この悪魔的な夜に詩を書くということ

私もまたSNSを発信ツールとして活用しています。

そのきっかけは、2009年のある出来事でした。

その出来事において

SNSによって悪意にもとづく偽りの情報が拡散されていて

そのことによって傷ついている人々を知るようになりました。

その過程で

まがりなりにも言葉を扱う者として

このツールの「安易さ」を野放しにせず、

むしろ逆手にとり、

自分なりの発信手段としなくてはならないことを痛感しました。

その経緯については振り返りつつ、

追って綴りたいと思います。

ところで

SNSには色々選択肢がありますが、

私はまずはブログ、それからツイッターフェイスブックという順番で

「参戦」していきました。

ツイッターを始めるまではブログが主な発信手段でしたが、

3.11後原発の情報を得るためにツイッターを始めてからは、

いつしかそれが

自分の直接的な思いがまず向かうツールとなっていきました。

それに対しブログでは発表された文章、

あるいは紀行文など

ある程度時間をかけて整理した文章をアップするようになりました。

140字で放った「声」は

今までネットの闇に捨ててきたのですが、

詩に関する思いを伝えるものは自分のもっともリアルな言葉でもあるし、

詩論の萌芽でもあるので、

折を見ては整理加筆したものを

ブログでアップしていきたいと思いたちました。

それで以下、

一昨日から昨日「ささやいた」ものを多少加筆訂正して

備忘もかねてまとめてみました。

象徴的なものいいによる飛躍や矛盾はお許し下さい。

タイトルは「この悪魔的な夜に詩を書くということ」とでもしておきます。

この悪魔的な夜に詩を書くということ

今後さらにとどまることを知らないだろうこの悪魔的な状況の下で、

詩を書く行為とは何か。

それはやはり

清冽な人間性を発露させることにならざるをえないのではないか。

たとえそれがいかに

これまで語られてきた詩の「歴史」を

虚構化し、ガラス化することであったとしても。

責任とか平和とかいう言葉も、

内実を抜き去られてもはやガラスのようだ。

しかしそもそもガラスであるのは言葉の主体なのである。

(言葉の主体が言葉に見はなされていく)

ガラスの主体に遺されたのは、

言葉の残骸あるいははかない記憶。

しかしそのガラスもまた

いまだ壊れていないものであるかのように責任や平和を口にするかぎり

それらのイメージや観念に閉じこもるかぎり

澄明さからはほど遠い。

無数の死によってこの瞬間も、

世界は砕け散りつづけている。

もう何度滅びているのだろうか。

誰もが本当はガラスのようだ。

かつてこの国がガラスとなって一度砕け散ったあと

戦後詩が

破片を拾い上げるようにして生まれた。

しかし拾い上げるその手はどこまで、またいつまで深く傷つくことができただろうか。

焼け野原に立つ詩人たちは、

もはや詩を書く者の中にも悪魔性があるはずで、

清冽な人間性というものは虚構で欺瞞である

という前提から生き直し、

書き直さなくてはならなかったはずである。

アウシュヴィッツ以後詩を書くことは野蛮だ」。

しかし詩が生存や持続のために変質をこうむりうるものではなく、

あくまでも清冽な一瞬であるとしたら、

それはあらかじめ歴史を超えたものでもあるというのも、真実である。

しかし今、恐らく戦後よりもさらに悪魔的な夜の時代に、

詩を書くための、

あるいは詩がおのずと生まれるための、

清冽な人間性をどのように担保し、涵養できるのか。

美しさへの生来の志向は必須である。

しかしそれ以上に何かによって

自分が打ち砕かれておかなくてはならない。

多くのすぐれた詩人が実証するように。

正確には

状況が悪魔的であるから詩が生まれないのではなく、

状況からあらかじめ距離をおき、

打ち砕かれまいとするから詩が生まれないのである。

澄明を装いつつ

不死のプラスチックへと変わる意志へとガラスが誘われるときが

ガラスの死である。