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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

海と蝶

海と蝶                            金起林

誰も彼に水深を教えたことがないので
白い蝶は海がすこしも怖くない

青い大根畑とおもって飛んでいったが
いたいけな羽は波に濡れ
姫君のように疲れ果ててもどってくる

三月の海は花が咲かずやるせない
蝶の腰に真っ青な三日月が凍みる
 
青柳優子編訳・著『朝鮮文学の知性・金起林』(新幹社)扉にある詩(全文)です。
めくるめく詩的リアリティに、私は一瞬で吸い込まれました。
水深を暗く隠し、美しい青で無垢な蝶の羽ばたきを誘う海。
波しぶきに濡れた羽で、あわれな姫君のように戻ってくる蝶。
花の幻と酷薄に沈黙する三月の海。
やがて蝶の腰に痛々しく突き刺さる三日月の冷たさ──。

青木優子氏によれば、
「三月」とは「三・一独立運動」、
「花が咲かずやるせない」はその後も独立できないことへの失望感、
海から戻ってきた白い蝶は「いずれ訪れる独立の日まで波にのみこまれまいとする、詩人の『生存の信念』」
を表すといいます。

「生存の信念」つまり抵抗の意志を、
これほど美しく幻想的なモダニズムで表した詩を、私は知りません。
現実への意志を、
それと拮抗する力で非現実へとねじふせる(あるいはその逆の)
静かで激しい力。
金起林の詩は、現実と美の双方へ魅惑的に抗っています。

金起林(キム・ギリム)(一九〇四〜?)。
金素雲の『朝鮮詩集』にも紹介された、李箱や鄭芝溶とともに朝鮮モダニズム詩を代表するこの詩人の生涯は、歴史と政治に過酷に翻弄されたものです。

植民地化の渦中に少年時代を過ごし、
留学した日本の大学でモダニズムへの関心を育みます。
その後新聞記者となるかたわら、鄭芝溶と李箱らと交流します。
やがて新聞は廃刊に追い込まれ太平洋戦争が勃発し、
朝鮮での思想弾圧が激化したために故郷に引きこもります。
解放後教員となり朝鮮文学者同盟に加盟し、
詩集や詩論集など次々刊行しますが、
朝鮮戦争の渦中に人民軍に連行され消息を絶ったといいます。
以後軍事政権によって詩人の名は文学史から抹消されますが、
長い時を経て政権崩壊をきっかけに復権します──。

彼のモダニズムには不思議な強さがあって惹かれます。
それは彼のモダニズムが技巧や修辞ではなく、
平和へのつよい思いから生まれているから。
詩人がモダニズムに期待したのは、
民族主義を乗り越え世界的な原理を見出す力でした。
歴史と現実を冷静に見つめながら、
「来るべき民族文学」を今いかに創出すべきかを考え抜いた、
真摯に感じ思考する詩人です。
ぜひ読んでください。