四方田犬彦さんの『100POSTCARDS』(ユトレヒト)に感銘を受けました。
百名の人に自分の言葉を添えた百枚の絵はがきを送るという設定で、架空の文と映像がそれぞれ見開きの左右に収められています。
幼い頃、祖母にいわれた「旅行に出たらかならず絵葉書を送るのですよ」といういいつけに従い、四方田さんは旅先で絵葉書を買って投函する習慣を持っているといいます。
大人になった今あらためてそうした絵葉書の不思議に思い当たります。
「絵葉書に書き記すべきメッセージとは、いったい何なのだろうか」
しかし何を書いたとしても、絵葉書の文章は「どこかしら間抜けてみえる」。
「というのも絵葉書を受け取ってその映像を確かめた瞬間に、人はただちにメッセージを了解してしまい、文章は重複で不要なものと化してしまう」から。
では、絵葉書を出すとは一体いかなる行為か。
それは「すなわち、わたしはまだ生きている。わたしはあなたから遠いところにいるが、それでもいつまでもあなたのことを考えている。わたしは決してあなたを忘れることがないだろう」というメッセージを伝えること。
ここに選ばれた百人は、ほとんどが四方田さんがどこかで個人的に出会ったことのある人です。有名無名にかかわらず、あるいは実際会わなかった人でも、魂の深くから「わたしはまだ生きている」というメッセージを届けたい、いとおしい人。
西脇順三郎、岡田隆彦、田村隆一、多田智満子などの詩人への手紙もあります。
文章はほとんど活字ですが、中には肉筆のものがあります。深い思い入れのある人物に宛てたものと思いますが、その中に中上健次宛のものがあり、胸に響きました。
「差別された者は美しい。いや、差別された者はなぜ美しくあるか。賽の河原で小石を積みあげる幼児のように、あなたはそれを考え続けた。竹取の翁が田畑を持てず、竹取を生業とする賤民であったと、あなたは「すべての物語の母」を指して語った。千年に一度、竹は白くかそけき花を咲かせ、次の千年は入寂してしまう。あなたはそんな竹のように生きた。日本語で記された文学という、巨大な竹藪の最後の花であるかのように」
三年前四方田さんが出された『日本のマラーノ文学』(人文書院)は、朝鮮人差別や部落差別について扱った果敢な評論集で、私もある雑誌で取材させて頂いたことがありました。