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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』(四)

愛国心」。
この国で今
そう何のためらいもなく口にしうる人を
私は疑わしいと思います。
そうではなく
それを口にしようとして
ためらう人こそが信じられます。

愛国心」と言うときの私のためらいは
日の丸の明るい赤を見るとき
どこか痛みが走るのと
似ています。

「アイコクシン」という響き
愛国心」という文字
日の丸の赤

そんなにはっきり晒してはいけない、
まださらしてはならないのではないか、

そんな危うささえ感じるのです。

私は日本人ですが
帰属する国の旗を(そして歌も)
私自身の、いわばサンデルの言う「人格の物語」
に組み込むことは、今はどうしてもできません。

それは
私の「物語」から外れた真空のような場所で
無音にはためきつづけているのです。

孤独な国旗
というそのイメージは
私の中で
中原中也が幻視した旗のイメージ
がかさなっているのかもしれません。

   ある朝 僕は 空の 中に、
  黒い 旗が はためくを 見た。
    はたはた それは はためいて ゐたが、
  音は きこえぬ 高きが ゆゑに。
                                    (「曇天」)

これは戦前の暗黒時代に
精神の闇の予感の中で書かれましたが 
私もまた
いまだ晴れることなく
むしろ澄みわたった闇の中にいるのかもしれません。

外こそが自閉している。
どんどん自閉していく。

しかし愛国心は本来決して内向きのものではない、
とサンデルは言います。

「いや、必ずしもそうではない。連帯と成員の責務は内向きであると同時に外向きでもある。自分が属する特定のコミュニティから生まれる特別の責任の一部は、仲間に対するものかもしれない。だが、責任のそれ以外の部分は、コミュニティが歴史上の道徳的義務を負う相手に対するものかもしれない。ユダヤ人に対してドイツ人が、アフリカ系アメリカ人に対して白人のアメリカ人が負うように。歴史的不正への集団的謝罪は、自分が属さないコミュニティに対する道徳的責任が連帯から生みだされることの好例だ。自分の国が過去に犯した過ちを償うのは、国への忠誠を表明する一つの方法である。