辺見庸さんの新著『いま語りえぬことのために―死刑と新しいファシズム』(毎日新聞社)
を読みました。
昨今の暴力的な政治状況と
それに連動するかのような世相と人の心の荒廃。
そのただなかにまさに現れるべくして現れた一書です
このブログでも記事にした(http://reliance.blog.eonet.jp/default/2013/09/post-a42a.html)
今年八月三十一日に四谷区民ホールで行われた講演会の草稿を
大幅に加筆訂正した「死刑と新しいファシズム」を中心に、
ブログ「私事片々」をまとめた「なぜ毎日エベレストにのぼるのか」と
最近の新聞や雑誌に発表された文章、
そして巻頭と巻末には書き下ろしのエッセイが並びます。
どれも今の事態の鉛の重さを一語一語個の底で引き受け、
この不毛な砂の言葉の現在に
ウマオイの美しい死骸を手にしたような
底からの蘇生の感覚を与えてくれるものでした。
先日、信じられないスピードで特定秘密保護法案が可決されてしまって以来、
私の中でも怒りを超えて悲しみとやりきれなさが広がっています。
死刑もまた何のためらいもなく次々と執行され出しました。
反対の声は多いのに聞き届けられることもありません。
徒労感があります。
絶望感であるかもしれません。
それは言葉自体への。そして語ることそのものへの。
「朦朧としたことどもをさも鮮明に映し、明晰に語ること。澄明で流ちょうな嘘の洪水に、わたしたちの目と耳と舌とはもう疲れている。」(「語りえない影絵のなかへ―後書きにかえて」)
「いま、語ることは語ることの無意味と戦うことです。怒りは怒りの空虚に耐えることです。お遊戯の指で、ほんものの時はかぞえられません。地上のその明るさで、地中の闇をはかることはできない、と言います。死刑制度と死刑囚についてもっともっと思いをめぐらしましょう。」(「死刑と新しいファシズム))
「おしなべて起動機能が解除されてしまっている。あるのは、たまさかの発作と痙攣だけだ。うわべの塗りという塗りをぜんぶ剥ぎとり、衒いと忖度と世故のいっさいを殺した、そんなことがもしもできるとしたらの話だが、裸形になりつくしたギリギリの極限の個の哀しみを表現しえて、はじめて思想はかすかな思想らしきものとして芽生えうるものではないか。おい、せめてツユクサを踏むなよ。この社会はいま、ぜんたいとして自由と深い快楽ではなく、不自由と苦痛と、とりかえしのつかない罪責を、無意識に求めるともなく求めているのではないか。知とは自己内に棲まう他者ととことん妥協なく語りつくすことだ。」(「なぜ毎日エベレストにのぼるのか?」)
「こうなったらしかたがない。せめては睨めることだ。わたしだってひとを睨めつける意思くらいはまだある。睨めてうごかざる殺意。はたと睨めて世界を刺しつらぬく、目のなかの青い刃。それをふりまわすくらいの殺意がないとはいえない。」(同上)
「いま語りえぬこと」とは、抑圧されて失われたことどもを超え、
大きな言葉からとりこぼされたままの世界の細部や陰影すべてです。
それはまだウマオイの美しい死骸のように新鮮にそこにあるのです。
それを探さなくてはならないのです。
私はこの一書を通して次第に深くから励まされていきました。
死刑とファシズムについて
語り合う他者が自分の中にまだいると、信じたいです。