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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

詩の講座のお知らせ

4月から京都で詩の講座を担当します。
詩に関心のある方、実作をしてみたい方はぜひ。一緒に楽しく学んでいきましょう。

□タイトル
「好きな詩に出会い、好きな詩を書くー詩を書こう」
□講師
河津聖恵(詩人)
□概要
詩とはなにか。この講座ではあなたの「好きな詩」のことだと考えてください。好きな表現やフレーズに触れる喜びや楽しさは格別です。きっと詩を書きたくなるはずです。 たくさんの「好きな詩」に出会い、あなたの「好きな詩」を書いてみませんか。詩の歴史と京都ゆかりの詩人についても学びます。初心者でも経験者でも一緒に詩を楽しみましょう。
□日時
第4木曜日 13:30~15:00 4月25日、5月23日、6月27日            

□場所
京都新聞文化センター
(〒604-8578京都市中京区烏丸通夷川上ル 京都新聞南館ビル8階)
□受講料
8,910円(税込・3カ月・3回)
□教材費
300円
□教室管理費
300円
□入会金
3,300円(税込・3年間有効) 70歳以上は半額
□申込先
京都新聞文化センター
TEL075-213-8146 FAX075-213-8139
担当  宇野 美里
E-mail misato@kyoto-pd.co.jp

 

2024年2月5日京都新聞朝刊「詩歌の本棚・新刊評」

 倉橋健一『宮澤賢治ーー二度生まれの子』(未来社)は、30年以上前に刊行された賢治論を増補し復刊したもの。だが全く古びていない。詩人でもある著者の思索の言葉は、賢治についての固定観念を次々と打ちくだく。とくに「中原中也の関心」と「二度生まれの子」の章は興味深い。1923年から2年間京都に滞在した中也は、恐らくその間に富永太郎を介し賢治の詩を知ったという。やがて『春と修羅』の生命力に震撼させられ、空虚なダダイズムの方法から離れ始める。
 中也は「宮澤賢治の詩」で書く。「彼は幸福に書き付けました、とにかく印象の生滅するまゝに自分の命が経験したことのその何の部分をだってこぼしてはならないとばかり。それには概念を出来るだけ遠ざけて、なるべく生の印象、新鮮な現識を、それが頭に浮ぶままを、ーーつまり書いてゐる時その時の命の流れをも、むげに退けてはならないのでした」。その詩は中也や高橋新吉ダダイストを、創造的で新鮮な「野蛮さ」でつよく惹きつけた。
 「二度生まれの子」とは「徹底した厭世主義」をくぐり抜け、修羅から信仰へと蘇生する存在。連作「無声慟哭」は、「トシの死をつつむ全部の状況を、ともあれ自分の内面史として、叙事的に克明に定着させようと」する試みだと著者はいう。愛する妹の死に刻々とどこまでも寄り添う賢治の詩は、戦争や災害で死者が数としてカウントされ続ける今を撃つ。
 江嵜一夫『仮眠する雷鳥』と『沙漠の真珠』はほぼ同時の刊行(共に編集工房ノア)。前者は二冊の既刊詩集を合本した再版であり、冬山登山での極限状況を、新刊の後者はシルクロードでの異空間体験を描く。どちらも苛酷な自然に具現化した死に、自身のよるべない生を向き合わせる。死に触れられ仮象だった自己が実在となる瞬間を、見事な比喩や鮮やかなイメージでつかみ取る。一篇一篇が生を取り巻く死を描きだす、言葉の力によるスリリングなドラマだ。この二冊には登山や旅で作者が育んできた深い叡智が、時にユーモアも湛えつつ、死の闇の中の星のように煌めいている。
「垂直の最短距離を落石がはしった 帽子をとばし/男の休息していた後頭部に ジャスト・ミートした//小さな悲鳴を聞きつけ 這松の根っこで/仮眠中の雷鳥がむっくり起きあがった//不安定な足どりで近寄ると 遠まきにのぞきこむ/まっ青になった人間をしりめに//頭の割れ目にくちばしをつっこみ 目を細めて言った/ーーここんところが一番うまいんだ」(「雷鳥」全文)
「南疆鉄道の貨物列車と貨物列車が/マッチ箱がこすれるように/すれ違いざまに小さな竜巻がおこる/こちらに近づいてくるでもなく/黄色の火打石を落としてゆく//街路樹の銀杏をよけて/歩道の縁石を蹴って軽く飛ぶ/イスラム寺院の前で/羊肉を売る店の前に立つ/皮を剥かれた羊が鉤に吊るされ/客は部位を品定め/大柄な店員はナイフで肉を削ぎ/切り売りする/けものの命を断ち/肉を剥ぐ男の目つきは鋭い//一滴の水は血より貴重なのだ/水で流すこともなく/店の溝に血だまりが/わきの桶には臓物/毛皮と頭部が無造作に転がっている/この街は生臭い/人間も動物もみんな生臭い//秋、御堂筋の銀杏を踏みつぶして歩くとき/羊肉を売る店の前に立つ」(「銀杏のころ」全文)
  なお『仮眠する雷鳥』には、1981年に亡くなった京都の詩人黒瀬勝巳氏への追悼詩も収められる。
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HP「一篇の詩への旅」開設のお知らせ

HP「一篇の詩への旅」が出来ました。

各人がそれぞれ選んだ一篇の詩を肌身で感じつぶさに読み解きながら、詩の時空を旅します。

まずは、

尹東柱「序詩」(河津聖恵)

「藤田武の一首」(加部洋祐)

の二つの旅をアップしました。
どうぞひととき、豊かな詩の小さな旅をご一緒にー。https://nzdmw.crayonsite.com/

12月23日の講演会の記事・1月10日毎日新聞夕刊

昨年12月23日の講演会を記事にしていただきました!

同世代の記者が歴史家の和田春樹さんの著書とタイアップさせて、とても的確に書いてくれました。

「印象深かったのは、河津さんがこのテーマを選んだ理由を「戦争が決して過去のものではなくなった今、戦後詩から教えられるものは大きい」と語ったことだ。また『荒地』と『列島』それぞれの特徴を対比しながら、双方の考え方と手法をよく見極める必要があるとし、今、反戦詩を言こうとする場合も、単なるプロパガンダに陥らない私性」の担保が重要だと述べた点に共感した。」

なお和田さんの著書は政治の季節を振り返るもの。今回の講演会が、ウクライナやガザが今も潜在する戦前がふいに可視化した現在、必然的な流れから生まれたような気がしてなりません。今後も、戦前と戦後が照らし合うような仕事をしていきたいです。

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12月23日講演会「いま、戦後詩をみつめる」

12月23日の講演会のポスターが完成しました。8日頃から公民館で電話or来館受付です。1950年代「荒地」最盛期に田村隆一鮎川信夫が住み、サークル詩もさかんだった詩の町くにたちに、ぜひご参集ください。

この講演会をとおして、「いま詩とは何か、どんな詩を書けばいいか」が見えてくればと思っています。戦後詩を見ていくとあらためて感じるのは、戦争はもちろん、戦後も同じ位苛酷だったということ、そして今も厳然として戦後であり、それは言葉を試し続けていることです。さらに、そのことをこそ戦後詩は伝えようとしていること、です。

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講演会のお知らせ

 12月23日の講演会のお知らせです。よろしければぜひ!(8日頃から国立市公民館にて電話or来館受付です。)くわしくは下記の広報一面をご覧ください。

 現在、四苦八苦しながら準備中です。内容は何とか定まってきました。『荒地』、『列島』、サークル詩をとおし、戦後史を「感情の歴史」として感じとれるような話をしたいと思っています。詩を、過去と現在の感情の交錯のアクチュアルな現場として、提出できたら。来てくださる方々とも意見を交わしつつ、新たな詩の地平が見えてくるといいなと思っています。

 ちなみに田村隆一が鋭い反戦感情をイメージとして屹立させた「立棺」を書いたのも、じつは70年ほど前の国立なんですよ。そして私の大切な故郷です。

 聖夜も近く、大学通りのクリスマスツリーの輝きも美しい頃です。ぜひおいでください。

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2023年11月20日付京都新聞朝刊文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 今年は戦後を代表する詩人、田村隆一の生誕百年。田村の石礫(いしつぶて)のような物質的な言葉からは、今なお新鮮な反戦感情がまっすぐに立ち上がる。「わたしの屍体を地に寝かすな/おまえたちの死は/地に休むことができない/わたしの屍体は/立棺のなかにおさめて/直立させよ」(「立棺」)。田村を始めとする戦後詩人たちの言葉の底には、内面化された戦争体験と、戦死者たちの怒りの声がある。それゆえ人類の歴史と文明の総体に、否定を突きつける強靭な詩性の輝きを放っている。
 森川雅美『疫病譚』(はるかぜ書房)の作者は、コロナ禍という危機に際し「詩人として何ができるのか考え、日本の疫病の歴史を調べ始めた」。そして「歴史の大文字の声に消された、無数の小さな声」を、「想像力を全開にして聞き取り言葉にすることから書き始めた」。古代から現在までの声を交差させた本詩集は、ウイルスの意識にまで想像を馳せた、長大な実験的叙事詩集だ。肉体と魂の尊厳が失われていく事態に慟哭する声々が、章立てのない詩の空間に、これでもかこれでもかと読経のように響き続ける。例えばコロナと化した死者の鋭い抗議は、前述の「立棺」の否定の命法と遥かに通底するようだ。
「私はコロナである/一つのコロナとしての/私の時間が落ちていく/私の手に触れるな/静かな手に触れるな/私の死んだ手に触れるな/静かじゃない私たちに/触れるんじゃない/私は私である/私は私の私である/私はコロナ/として自覚してある/許してください/許してください/私はコロナの目である/コロナの目としての私/は落ちていく/私たちの静かな/時間の中に/私の手/私の足/私の首/私はあなたを殺します/私はあなたに殺されます/私は殺していく/時間である/殺されていく/時間である」
   神尾和寿『巨人ノ星タチ』(思潮社)は、詩的コント集とでも言える斬新な一集。全18篇の詩は、それぞれさらに9章ずつの章立てとなっている。各詩にはタイトルが付されるが、それは確固としたテーマを意味するというより、詩全体をふわっと包む空気のようだ。ユーモラスなようでいて、著者固有の哀愁を帯びる言葉は、空無と貼り合わせとなっている。それはどんな暴力も可能にしながら、同時に暴力を限りなく無力化している。本詩集の根源には恐らく言葉には実体がないという哲学があり、それゆえ詩に登場する事物や人間は、たやすく別の存在へとひっくり返され、やがて世界は密かに静かに否定される。
「チュータがダマテン役満を上がる/イッテツが雀卓をひっくり返す/ミツルがヘアーをリキッドする/イッテツが雀卓をひっくり返す/ヒューマはアスファルトの道の上を走っている/アキコがとても熱いお茶をお盆にのせて運んでくる/イッテツが雀卓をひっくり返す/ホーサクが故郷で暮らす兄弟姉妹のことを自慢する/イッテツが雀卓をひっくり返す/ヒューマは鉄の下駄を脱ぎ捨てて裸足で走っている/シンゾーが寝言を並べる/イッテツが国会議事堂をひっくり返す/シェークスピアがたったの十秒で起承を転結させる/イッテツが日生劇場をひっくり返す/ヒューマは都会の夜明けを走っている/オンナは男になる/イッテツがひっくり返そうかどうか思案しはじめる/盗んだ手紙を/返そうかどうか/ヒューマは足を止めた/星の命は一億年/長い寿命だが 限りはある」(「巨人ノ星タチ」1、全文)