(遅ればせながら年末に「しんぶん赤旗」文化面に出た石垣りんさんについてのエッセイを以下にアップします。)
今戦後詩に惹かれている。戦後詩とは狭義には敗戦後から1950年代までに書かれた詩を指す。とりわけ1950年代前半までこの国の詩は社会の中で輝いていた。今から見れば眩しいほどに。戦後民主主義によって表現意欲を触発された市井の人々が、職場の組合や療養所や夜間高校などで「サークル詩誌」を作り、胸からの「うたごえ」として率直に詩を綴った。詩を書く限りは決して希望を失わないという思いで。
今年没後二十年を迎えた石垣りんは戦後詩を象徴する詩人だ。戦前は民衆詩人に学び、戦後サークル詩誌に作品を発表したことがきっかけで、広く知られるようになる。代表作の一つ「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」は『銀行員の詩集』(1952年版、全国銀行従業員組合連合会刊)に収められた。当時三十二歳の石垣は、働く女性としての思いをこううたう。「私たちの前にあるものは/鍋とお釜と、燃える火と//それらなつかしい器物の前で/お芋や、肉を料理するように/深い思いをこめて/政治や経済や文学も勉強しよう、/それはおごりや栄達のためでなく/全部が/人間のために供せられるように/全部が愛情の対象あって励むように。」男女同権下でも男たちの価値が重んじられていた。だがそれはもう無効だ、女が手仕事の中で掴んできた知恵からやり直そう――そんな根源的な転換への提言に胸をつかれる。
十四歳から銀行員として働き出した。金銭的に自立し物を書く自由が欲しかったからだ。家庭は複雑だった。幼くして母と死別、その後父は結婚と離婚(または死別)を繰り返す。戦争末期に自宅は全焼し、若い石垣は一家の経済を背負うことになる。定年まで働きながら詩作したが、もっと学んでおけば良かったと悔やむこともあった。だが「書くことと働くことが撚り合わされたように生きてきた」からこそ、その詩は自己と人間への曇りのない眼差しと社会に広く訴える力を獲得した。生きとし生けるものの体温が宿る発想と比喩。現在の希薄な言語空間に置けば命の湯気が立つ。
1950年代つまりサークル詩時代の詩は、同時代が共有する反戦や幸福への思いと共鳴し、「語りかける」文体だ。一方1960年代以降の生活詩と呼ばれる「シジミ」や「表札」は、命の連鎖と個の自覚を独白的に綴る。変化したのは、社会が経済を優先し始めたことが内面に翳りをもたらしたからだろう。だが社会がどう変わろうと「旗じるしのない私の精いっぱいの表白」という詩のスタンスは変わらない。無名の人々への愛と、自らの孤独の双方に足場を置く、生活派や社会派には括れない「ほんとうのことば」のあふれる豊饒な詩人なのだ。
戦後詩の魅力たっぷりの詩は事実や感情の貴重な証言でもある。「挨拶」は、原爆被災者の写真の公開が許された1952年、焼けただれた顔の写真に添え職場に貼り出された。「一九四五年八月六日の朝/一瞬にして死んだ二五万人のすべて/今在る/あなたの如く
私の如く/やすらかに 美しく 油断していた」と詩は終わるが、この「美しく」は、平和がいつ壊れるか分からないという危機感を絶妙に表現する。1965年職場の新聞の戦争追悼号に寄せた「弔詩」は、同じ職場から出た犠牲者の名を挙げ呼びかける。「八月十五日。/眠っているのは私たち。/苦しみにさめているのは/あなたたち。/行かないで下さい皆さん、どうかここに居て下さい。」もはや生者に死者が忘られていくのではない。生者が死者に見捨てられていくのだ。その実感に詩人は引き裂かれた。「美しい和子姫/幸福な人間を見ることは私共のあこがれである/その、より多いことこそ/最も強いあこがれである。」と結ぶ「よろこびの日に」は1950年、ある皇女の結婚に感じた思いをありのままに書き、職場の文化祭や集会で朗読した。この「強いあこがれ」は今も埋み火のように消えてはいない。
石垣りんの詩を、戦後詩を読もう。私たちの希望と危機の根源を振り返り、そこから今にうたう声を汲むために。