茨木のり子は、ある時若い詩人に詩作のアドバイスを求められて、「万葉集を読みなさい」と答えたという。「『万葉集』が残っていたからこそ、七、八世紀の日本人の心の、照りかげりが、手にとるようにいきいきと、わかってくるのです。」(『うたの心に生きた人々』)という言葉も残し、万葉歌を引く詩も書いた。古えのすぐれた詩歌には、命の喜びと悲しみから書き手を触発し、詩作に向かわせる力が確かにある。
水島英己『彼方人(おちかたひと)』(七月堂)は、「すべての詩篇が『万葉集』の歌をモチーフにしている。」(あとがき) 古典の言葉と共に歩んできた作者の、ライフワークとも言える詩集だ。作者は「うつそみ」(=この世のひと)としての自覚から、現代の暴力や破壊の景色を織り交ぜつつ、『万葉集』から新たな詩世界を現出させる。「万葉の歌人たちの『思い』と『見る』を、今の世界と私の情況に並べることで開かれる景色、家持なら『物色』というだろうが、それを描くことが、この詩集の目標となった」。「彼方人」とは死者生者の別なく、「生の困難さにとどまり、闘い続けている」全ての人々。万葉の喜びも悲しみもまだ終わってはいないのだ。
「今日よりは顧かへりみなくて大君の醜の御楯と出で立つ我は」(下野・今秦部与曾布)の歌を引いた後で――
「顧みなくて/と言いながら/顧みたいものがあった/母の手/子の声/畑に残した鍬の重み/醜の御楯と出で立つ我は/と歌ったその声は/誰かに言わされたものか/それとも/泣きながら書いたものか/家持よ/あなたはその歌を載せた/『拙劣なる歌は取り載せず』と言いながら/この歌は載せた/わたしは読む/その決意の裏にある/顧みたいものを/顧みられなかった者の/困難な生を/わたしは兵士ではない/防人でもない/ただ歌を読む者/記録の余白に立つ者/忘らむて野行き山行き我来れど/我が父母は忘れせぬかも/その歌を読むとき、もちろんわたしも忘れないが/わたしの亡き父母も/わたしを忘れはしないと/思うのだ/アンパンマンのように笑う男の子/子鹿のように跳ねる女の子/彼らが歌わされずにすむように/『かしこみ』も『大君の醜の御楯』も/ただの古語として眠るように/家持よ/あなたの筆が記録したものを/わたしは読む/あなたの涙を/わたしの歌として読む」(「野行き山行き」)
金堀則夫『日々のびび』(思潮社)は「ひ」というひらがなを中心に、自然の地層と精神の古層から、響きと形において語り出す文字たちの気配と声を、眼を凝らし耳を澄まして様々な角度と情景において描き出す。「ひ」が訴えるのは、干上がり割れる世界の感受性全体の危機なのだ。
「わたしの手に在るのは/土壌で練り上げてきた器のつぼ/口から出てくる/非ひい・不ふう・未みい……と かぞえ/日々の生活を覆っている/生きるおもいのツボがひび割れをおこしている/日ひい(火)・風(ふう)・水(みい)……とかぞえながら/どれだけの土を練り上げてきた/つぼか うつわか/日・日は「ひ・ひ」ではなく「ひ・び」なのだ/日々にひびが入ってくる/ひびの「び」が なぜかびびる/人とひとも「人びと」/なぜか、び び び び……と脅えてくる/「び」はただの濁点ではない/日々のくらしのひびなのだ/この力強い「び」が あらそいのツボになり/ひびが深まって/怨念のひるみがよみがえる/日々のひずみ おだやかにもどるには/力のバランスか/逃亡か/平安なツボはだれがもつべきなのか」(「ひび」)





