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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

12月23日の講演会の記事・1月10日毎日新聞夕刊

昨年12月23日の講演会を記事にしていただきました!

同世代の記者が歴史家の和田春樹さんの著書とタイアップさせて、とても的確に書いてくれました。

「印象深かったのは、河津さんがこのテーマを選んだ理由を「戦争が決して過去のものではなくなった今、戦後詩から教えられるものは大きい」と語ったことだ。また『荒地』と『列島』それぞれの特徴を対比しながら、双方の考え方と手法をよく見極める必要があるとし、今、反戦詩を言こうとする場合も、単なるプロパガンダに陥らない私性」の担保が重要だと述べた点に共感した。」

なお和田さんの著書は政治の季節を振り返るもの。今回の講演会が、ウクライナやガザが今も潜在する戦前がふいに可視化した現在、必然的な流れから生まれたような気がしてなりません。今後も、戦前と戦後が照らし合うような仕事をしていきたいです。

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12月23日講演会「いま、戦後詩をみつめる」

12月23日の講演会のポスターが完成しました。8日頃から公民館で電話or来館受付です。1950年代「荒地」最盛期に田村隆一鮎川信夫が住み、サークル詩もさかんだった詩の町くにたちに、ぜひご参集ください。

この講演会をとおして、「いま詩とは何か、どんな詩を書けばいいか」が見えてくればと思っています。戦後詩を見ていくとあらためて感じるのは、戦争はもちろん、戦後も同じ位苛酷だったということ、そして今も厳然として戦後であり、それは言葉を試し続けていることです。さらに、そのことをこそ戦後詩は伝えようとしていること、です。

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講演会のお知らせ

 12月23日の講演会のお知らせです。よろしければぜひ!(8日頃から国立市公民館にて電話or来館受付です。)くわしくは下記の広報一面をご覧ください。

 現在、四苦八苦しながら準備中です。内容は何とか定まってきました。『荒地』、『列島』、サークル詩をとおし、戦後史を「感情の歴史」として感じとれるような話をしたいと思っています。詩を、過去と現在の感情の交錯のアクチュアルな現場として、提出できたら。来てくださる方々とも意見を交わしつつ、新たな詩の地平が見えてくるといいなと思っています。

 ちなみに田村隆一が鋭い反戦感情をイメージとして屹立させた「立棺」を書いたのも、じつは70年ほど前の国立なんですよ。そして私の大切な故郷です。

 聖夜も近く、大学通りのクリスマスツリーの輝きも美しい頃です。ぜひおいでください。

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2023年11月20日付京都新聞朝刊文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 今年は戦後を代表する詩人、田村隆一の生誕百年。田村の石礫(いしつぶて)のような物質的な言葉からは、今なお新鮮な反戦感情がまっすぐに立ち上がる。「わたしの屍体を地に寝かすな/おまえたちの死は/地に休むことができない/わたしの屍体は/立棺のなかにおさめて/直立させよ」(「立棺」)。田村を始めとする戦後詩人たちの言葉の底には、内面化された戦争体験と、戦死者たちの怒りの声がある。それゆえ人類の歴史と文明の総体に、否定を突きつける強靭な詩性の輝きを放っている。
 森川雅美『疫病譚』(はるかぜ書房)の作者は、コロナ禍という危機に際し「詩人として何ができるのか考え、日本の疫病の歴史を調べ始めた」。そして「歴史の大文字の声に消された、無数の小さな声」を、「想像力を全開にして聞き取り言葉にすることから書き始めた」。古代から現在までの声を交差させた本詩集は、ウイルスの意識にまで想像を馳せた、長大な実験的叙事詩集だ。肉体と魂の尊厳が失われていく事態に慟哭する声々が、章立てのない詩の空間に、これでもかこれでもかと読経のように響き続ける。例えばコロナと化した死者の鋭い抗議は、前述の「立棺」の否定の命法と遥かに通底するようだ。
「私はコロナである/一つのコロナとしての/私の時間が落ちていく/私の手に触れるな/静かな手に触れるな/私の死んだ手に触れるな/静かじゃない私たちに/触れるんじゃない/私は私である/私は私の私である/私はコロナ/として自覚してある/許してください/許してください/私はコロナの目である/コロナの目としての私/は落ちていく/私たちの静かな/時間の中に/私の手/私の足/私の首/私はあなたを殺します/私はあなたに殺されます/私は殺していく/時間である/殺されていく/時間である」
   神尾和寿『巨人ノ星タチ』(思潮社)は、詩的コント集とでも言える斬新な一集。全18篇の詩は、それぞれさらに9章ずつの章立てとなっている。各詩にはタイトルが付されるが、それは確固としたテーマを意味するというより、詩全体をふわっと包む空気のようだ。ユーモラスなようでいて、著者固有の哀愁を帯びる言葉は、空無と貼り合わせとなっている。それはどんな暴力も可能にしながら、同時に暴力を限りなく無力化している。本詩集の根源には恐らく言葉には実体がないという哲学があり、それゆえ詩に登場する事物や人間は、たやすく別の存在へとひっくり返され、やがて世界は密かに静かに否定される。
「チュータがダマテン役満を上がる/イッテツが雀卓をひっくり返す/ミツルがヘアーをリキッドする/イッテツが雀卓をひっくり返す/ヒューマはアスファルトの道の上を走っている/アキコがとても熱いお茶をお盆にのせて運んでくる/イッテツが雀卓をひっくり返す/ホーサクが故郷で暮らす兄弟姉妹のことを自慢する/イッテツが雀卓をひっくり返す/ヒューマは鉄の下駄を脱ぎ捨てて裸足で走っている/シンゾーが寝言を並べる/イッテツが国会議事堂をひっくり返す/シェークスピアがたったの十秒で起承を転結させる/イッテツが日生劇場をひっくり返す/ヒューマは都会の夜明けを走っている/オンナは男になる/イッテツがひっくり返そうかどうか思案しはじめる/盗んだ手紙を/返そうかどうか/ヒューマは足を止めた/星の命は一億年/長い寿命だが 限りはある」(「巨人ノ星タチ」1、全文)
 
 
 

2023年10月2日京都新聞文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 詩が分かるとはいかなることか。書き手は自分にも分からない心の動きを、詩表現によって捉えようとするが、大切なのは、分からなさをそのまま伝えることだ。心の動きを解き明かして書けば、詩は魅力あるものにならない。全て分かると確信して読めば、詩の魅力は逃げてゆく。「分からなくても分かる」という不思議な共感がなければならない。草が風に揺れるように、自己と他者が出会うために。
 伊藤悠子『白い着物の子どもたち』(書肆子午線)には、そのような不思議な共感の時空がひろがる。詩に固有の共感の力で、ハンセン病の隔離政策、コロナ禍、難民問題といった反共感的な社会問題と鮮やかに向き合う。記録写真や絵画や夢や映像で出会う人々への、ゆえ知らぬ憧憬が、絶妙なリズムと省略によって、ゆえ知らぬ切なさのままに伝わってくる。時に古えのイメージも透明に重ねながら。
「アラース、ああ/打ちつけてくる/深い森のほうから/白い樹々がざわめきながら/打ちつけてくる/やがて砂漠の家々からも/聞き取れない名前を持った町からも/呼び名だけのあたりからも/毎日/アラース、かなしい//ベルガモの聖堂に整然と並べられた柩/ここより他の町の火葬場へと運ばれていく/運ぶ軍隊の車列はヨハネ二十三世通りを通っていくか//たくさんの穴が掘られている/この星の眼窩のように/白い布でくるまれたひとが深く下ろされていく/できるだけ深くと//映像でみたひとはみな異邦のひと/近い死は隔てられ/身をかがめながら急いでしまわれていくよう/幾重にもビニールと布が遮ってくぐもる/それはわたしに望んでいた近似値の死かもしれない/とおもうとき/夕べの鐘のように/ひとり少女がブランコに来てこすれるその正確な音によって/生きる生活をつたえてくる/半そで 夏帽子」(「毎日」全文)
 藤本哲明『attoiumani_nizi』(思潮社)は、共感そのものをテーマとして書かれていると感じた。「分からないのに分かる」―草の揺らぎがおのずと伝播するような自他の関係の可能性を、一語一語模索するようだ。ポストモダン的な書きぶりも遊戯的ではない。思えば1980年代には自由な共同体の思想が様々に提示された。次第に忘れられていった共同体の可能性は、今、詩の可能性として蘇りうるのかも知れない。分断の果てにありうる「フラテルニテ(同志愛)」とは何か。本詩集の一見散乱的な文脈からは、未知の「フラテルニテ」への密やかな意志を、終始聴き取ることが出来る。
「こうして/ここもまた、/冬である//随分と/独り/であった//夕刻、/台所へ/とゆく//シケモクと/グレープフルーツ/の喰いさし/その、入り/雑じった匂い/こそ/あなた、/だったか//あなた、の/歌/であったか//それを/郷愁/としか/名づけられない//郷愁であった/と、/次はないが/(しかし/あなた、は/次、を奪ったのか/守ったのか)/次は/そう、/告げよう/と、/思う」
「まるで/忘れ去られた//インターナショナル・ヒットマン・ブルーズ//まるで/忘れてしまった/が//それでも、/タイチ、/イワサキ、リョウヘイ//(あなた、にあなた/そして、もひとり/あなた、だ)//固有の名を一字一句、眠るまえに唱えゆく//それが/ただひとつ/わたし、の/フラテルニテ/であって//忍従シテイル/あの、夜だけが」(「続・あの夜だけが」)f:id:shikukan:20231002122542j:image

詩「破片」(「現代詩手帖」2023年9月号)

現代詩手帖」9月号に詩「破片」を書いています。このところ書きついでいる連作「鏡」のうちの一作。今、戦後詩がいい頃合いに焼けたパンのように、自分の詩への未知の飢えを触発しています。その不思議でもあり必然でもある心の状態を、鏡の中に入る境地で、戦後詩の空間に分け入るようにして描きました。f:id:shikukan:20230905151537j:imagef:id:shikukan:20230905151550j:image

2023年8月21日京都新聞朝刊文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 夏に入り、戦後詩を代表する「荒地派」の再読を始めた。戦死者への思いがこもる同派の隠喩はかつては難解だった。だが今は肌身に迫る。七十年ほど前の若き詩人たちの先鋭な危機感が、現在のぼんやりとした危機感を遥かに照らし出し、形を与えてくれるのだ。自分の詩意識もまた、戦争と向き合うための新たな表現を探っていたと知る。
 三尾和子『時間の岸辺』(本多企画)の作者は敗戦直後両親を亡くし、「疎開地の山峡の村に住むことを余儀なくされた」。そのときから作者の中を「一本の川が流れはじめる」。本書はその岸辺で出会った「懐かしい人々の声」に「促されてもの語ったもの」。全篇、時間と記憶の重さをむしろ詩の力とし、今も豊かな村の自然をモチーフに、死者と自己の声を重ね合わせるようにしめやかに幻想的に語ってゆく。反戦の意志をどこかにつよく滲ませて。
「暗雲が低く垂れ込めた天の一隅から、飛行機の爆音が微かに聞こえてくる。//目の前で、二枚のガラス戸が一瞬、交差する。稲光に曝された蝶の翅粉の細塵が目を射抜く。/すると、ガラス戸は左右に捲れた。/吸い込まれるようにわたしは、ガラス戸の向こうへ難なく入り込んだ。時は間延びした空間の在所のようだ。/そこには、すでに天涯へつづく、捻じれた帯のような螺旋階段が垂れ下がっていた。/ガラス張りの階段が、縮んだり伸びたりしている。/足下からは潮の匂いが、生暖かい風とともに噴き上がってくる。ざわざわと泡立ちもりあがってくる波。波、波。//黒く屹立する柱状節理の岩石の間隙を押し潰し、海水が螺旋階段を侵しはじめる。わたしは夢中で階段をかけあがった。/ようやく、階段を上りきったとき、急に緞張が降りて闇になった。//気がつくと、わたしは、庭先の朽ちた古竹に巻きついた雲南百薬の蔓の先に、病葉のようにはりついていた。/指のあいだに水かきができている。/疣状に隆起した背中に土色の引搔き傷が波の跡を留めていた。/(わたしは生きのびたらしい)/春風がわたしの背中を撫でていく。//爆音が急に近づいてきた。/建てつけのわるくなったガラス戸が震えている。/わたしは慌てて、ガラス戸にへばりついた。」(「土蛙」全文)
 秋野かよ子『歳時記』(文化企画アオサギ)にも現在の戦争への危機感がある。だが作者はあえて「何もない普通の日常」を描く。「いま、日常の力こそ大切なのだと思い、亡くなった友に向けて出版することにしました。日常の大切さとは『安定性』ではなく、人間が切り離されていくとき、一人ひとりが何か掴むものを持つこと、それは人間の生活防御の一つかもしれません。」(あとがき)本書に感じられる生命力の源は、戦後すぐに生まれた作者が幼年期に感受した平和な日常の力であり、平和に基づく人間の蘇生力であるだろう。
「戦後すぐに生まれたものは/狂うほど欲しかったものがある それは/砂糖でした/冷たく甘酸っぱい水でした/何もないのに/井戸水の冷たい砂糖水だけで/身体中の力がみなぎってくるのです/あしたは あの木へ登ろう//ゴム跳びの新しいものを友だちが忘れないだろうか/なんの遊具もない原っぱ遊びが/笑いに含まれ/分からない力が溜まり/夕日は/地面の向こうで限りなく輝いて/あしたを呼びながら/沈んでいたのです//ご飯はなにを食べたか分からないのに/夜は/ミルク色の天の川が夜空に流れていました/朝顔も毎年同じ色で咲きました//平和は/とうとうとゆっくりとした/管理されない時間なのです」(「戦後すぐ」全文)f:id:shikukan:20230821182504j:image