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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

たかとう匡子『私の女性詩人ノートⅢ』

たかとう匡子『私の女性詩人ノートⅢ』(思潮社)は12人の「女性詩人」を取り上げた詩人論集。私も「〈女性詩〉とは異質な流れから」という副題で取り上げていただいている。第一詩集『姉の筆端』から『夏の花』までの流れが丹念に辿られています。私が、女性詩の時代と同時代に出発し、女性詩のエネルギーに触発されつつ、身体性より思想性を求めたことを評価してもらっていて嬉しい。また熊野への旅での死者との交感に、戦後詩と通底するものを見て下さってもいる。とても鋭い。論の終わりで「河津聖恵は人間を書こうとしているのだ」とある。たしかにそうです。原点を突きつけられる思いがしました。f:id:shikukan:20230805231251j:image

「ふらんす堂通信177号」

ふらんす堂通信177号」は受賞特集。私も第41回現代詩人賞受賞詩人として、詩「ピエールとリュース」(連作「鏡」)とエッセイ「現代性という躓きの石」を寄せています。両者ともに、現代詩に固有の「全く別の現代性」を探る試みです。現代詩には近づく戦争の本質を映し出し、凍らせる力があると信じて。f:id:shikukan:20230805230926j:imagef:id:shikukan:20230805230945j:imagef:id:shikukan:20230805231001j:image

『詩人会議』8月号に詩「鏡IIーオルフェ」が掲載されました

『詩人会議』8月号に詩「鏡IIーオルフェ」が掲載されました。戦争をしない、させないという特集にそった内容です。今ウクライナでの戦争からもたらされる、過去と未来が相互に映し合うような感覚をもといにして、連作を試みています。戦争と鏡という二つのモチーフを温めて、自然発生的に言葉が紡がれていく形で書いています。

 今回はなぜ生まれる前の戦争を知っているのか、という問いを立てて自分の内奥に現れる錯綜する答えを、詩にしてみました。

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2023年7月3日京都新聞朝刊文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 私たちは日本語と日本の風景に、常日頃空気のように親和している。だが詩は、感受性の力でそこに違和を持ち込むことが出来る。日本語が異語のような面白さや不気味さをあらわし、風景が新鮮で危うい異貌をおびるとき、詩はポエムを超えて、現代性と世界性を獲得する。
 姜湖宙(カンホジュ)『湖へ』(書肆ブン)の作者は二十七歳。ソウルで生まれ六歳で渡日した。本詩集では、二つの国と言語の間で生きる作者が、自分は何者かという根源的な問いに揺れながら、二つの風景と言語が映り合う透明な時空で、詩を生成させていく。日常の出来事が暗喩や省略を織り込んで語られるが、沈黙や空虚をたたえる語り口は柔らかく、おのずとこちらの想像を誘う。自身の来歴、父母との関係、故国への思い、そして結婚し子供を持った日本で生きていくことへの複雑な感情―。ふと同じ二十七歳で、解放直前に獄死した尹東柱(ユンドンジュ)を思い出す。本詩集には尹への言及箇所もあり、植民地支配下で殺された全ての死者の声なき声が、奥底で作者を詩や絵へ向かわせていると分かる。「私の生を、無数の死が摑み続ける。」(「願い」)作者は詩と政治との間で揺らぐ。苦悩しつつ禁じられた朝鮮語で抒情詩を書き続けた尹のように。
「荘厳な音楽が流れて来る/たしかに聞き覚えのある旋律は/イムジン河か、ワルシャワ労働歌か。/急がないと、間に合わない/私は一気に階段を駆け下りる/暗い広場には誰もいなくて/私は彼らを探し求めて/あてもなく走り出す/喉に当たる風が/鋭く/咳き込む/温かい食事の匂いが/取り出したスカーフが/強風に攫われ川に落ちていく/懐の原稿を/一刻もはやく届けないといけないのに/あかりも こえも/見当たらなくて/途方に暮れる/地図も読めない一兵卒が/深い山林に分け入っていく/無謀さで/追いつくことなどできない/それは始めからわかっていたこと/寒さを耐え忍んで/冬の街を彷徨う/とっくに解散したデモ隊の最後尾に/どうにか辿り着こうと」(「定刻」全文)
 大谷良太『方向性詩篇』(編集室水平線)もまた、日本と韓国の風景と言語を巧みに映り合わせる。二つの国のあわいで、人も事物も感情も、「はじまり」の初々しさと透明で硬質な抒情を獲得している。時に振られる韓国語のルビが、紙面に不思議な浮力をもたらしている。隣国の声には日本語を解放する力があるのだ。例えば「学校」に「ハッキョ」とルビを振る。するとあらわれる新鮮な風景と思考―。
「一時期僕が上の子を通わせていた、/朝鮮初級学校も、とてもきつい勾配の上にあった。/子供と歩いてその坂を登り詰めた。/あの日々は自分にとって、どんな思い出なんだろう?/子供にとって、どんな思い出になったんだろう?/幼い子供たちの通う学校(ハッキョ)の前の道路に、/横断歩道さえ整備させない、この不思議な社会の構造って?/僕はきっと「差別」のことを考えたくて、でももっとそれ以前の/普段人が向かうこともあまり思わない、坂道の上にあるもの一般を漠然と考えている。」
「僕はやはり僕なりの仕方で、「坂の上」を自分に繋げてみたいんだろう。/学校(ハッキョ)が坂の上にあった、その「ウリハッキョ」は今もちゃんと坂の上にあるよ。ほんのひと汗の努力なんだよ。/少し馳せるだけで到達可能な、きっとこれは「思い」の持ち方の問題。/そんな、努力ですらないのかも知れない、僕にとってはやはり漠然としたままの/永遠に「ひと汗」の問題。」(「ひと汗」)

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2023年5月16日京都新聞朝刊文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 テーマを設定すると、詩は不自由になるようにも思える。だがテーマを持たず思うがままに書くと、何を書いても自由であるがゆえにかえって迷いゆきづまることがある。テーマで詩に負荷をかけることはもっと試みられていい。テーマにどう抵抗し親和するか試行錯誤する中で、言葉は鍛えられ、書き手の詩観も変化していく。
 倉本侑美子『星綴り』(七月堂)は、各篇にタイトルとして掲げられたテーマに、緻密で知的な言葉で迫る、テーマに忠実で誠実な詩集。テーマは負荷であるという以上に生と死、個人と社会を遥か彼方で切り結ぶための切実なイメージだ。作者はエッチングのように硬質で抒情的な言葉で、病める世界を詩の次元へ昇華させ、丹念な手仕事の力で作品を完結させる。カバー装画の長谷川潔の銅版画「小鳥と胡蝶」は、詩集の本質を表している。闇の中で二匹の蝶をけなげに見上げる一羽の小鳥は、詩をストイックに追求する作者自身だろうか。
「ここだけではない/地上のほとんどは病室だ/閉じられたまま均質に濡れそぼつ日々//出窓に誘いかける梢のそよぎも/蒸気を上げる街の息づきも/いまは途方もなく霞み/窓辺の地球儀は空回りをつづける//わずかな可動域の空間で/わたしは心を溜めている/恒に密かにペン先の揚力を信じて」
「ささめく星々の下は/均しく病み疲れた地上//癒えがたい無数の傷口を/いつか差す光の受口へと/非力な翼でほつほつと/この星をたどり なぞり/吐息をかけては誮(やさ)しさで綴る//掠れたインク 掻き傷だらけの/紙面を見舞いに夜空が撓(しな)い/またひとつ星を滴らせる//いまや光そのものになった/小さなノートから/翠の描線はふいと浮きあがり/オリオンの窓をくぐり抜ける//仄かな水尾は天穹に溶けいり/夜明けの鳥かごには/止まり木だけが/微かに揺れる」(「星綴り」)
 藤井雅人『虹色の羽根』(土曜美術社出版販売)は選詩集。最新の三詩集から採られた二十八篇を収める。この作者もまたテーマを大切なものと考える。「タイトル「虹色の羽根」の中の「羽根」は三詩集の中の『孔雀時計』と関係がある。「虹色」は様々な色の集まりという意味では、種々の花をテーマとした『花の瞳』と関連している。虹の中ですべての色彩が共存し調和している姿は、私が考える在るべき平和の形でもある。」(あとがき)物語性、自然と人間、時間といったテーマの下、思考の声による語りで詩の次元を深め、時空を無限に拡げていく。
「劫初の宇宙に ひとつの目がひらいた/そこから 光が湧きだした/四方八方に 無限の涯をさして//白いガーベラよ おまえは象る/中心から放射しつづける 宇宙の光芒を/ひとがおまえに与えた/花言葉 それは「希望」//白い花弁は 色に染まっていない/何の文字も書かれていない/それは告げている――永い歴史をたどってきた人間に/時が手渡すものは いまだに/どんな思念も捉えられない/純白の希(のぞ)みだけなのだと//花は手向けられる/戦火のなかで燃え尽きた人々に/地震で瓦礫に埋められた人々に/津波の底に呑みこまれた人々に/ひとは消えていった 小さな花弁たちのように/だが 花は地上に蘇りつづける/果てしない未来に向けて 希望をかかげながら//闇の奥から咲く白い花/わたしも その花弁のうえにいる/無限に延びる光芒のひとかけらとして/ガーベラよ おまえを見ながら/巨きな希みの花の姿を 心にえがいている(「希みの花」全文)

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『詩人茨木のり子とふるさと西尾(増補版)』

 愛知県の西尾市岩出文庫から、『詩人茨木のり子とふるさと西尾(増補版)』をご恵送いただきました。

 ふるさと西尾の暖かな空気と、昭和という時代の光と影の記憶の中で、この国が生み出した最良の詩人と再会する喜びを感じています。

 作品、テーマ別の解説と貴重な写真、友人知人、会員などの寄稿文、日記や作文、その他参考資料が、130頁という分量に非常にうまく収まっていて、大判のページを開いているととても楽しい気分になってきます。

 ちなみに私も、2017年に会報「詩人茨木のり子の会」に寄稿した「二月に煌めく双子の星」全文と、同年に行った講演「茨木のり子尹東柱」の内容紹介で参加させてもらっています。

 茨木さんの詩は平易だけれど、どの言葉も人間というものの無限の深さに届こうとしていて、読む私の中に眠りこむ「人間」を叩き起こしてくれます。

 最近、Twitterに以下のような文を投稿しました。

「細々ながら自分なりの反戦連詩を書き続けようと思う。人間の悪が無限の戦争の姿で剥き出された今、たとえ僅かであっても自分から消え去らない反戦の思いがある。それこそは詩の源泉だと確信する。反戦の意志を主体にして詩を書くことで、ニヒリズムと向き合う。美しいサイコパスにはならない。」

「もちろん反戦詩であるためには、ニヒリズムと戦うための理想が必要だ。それも観念的ではない、肉体的な理想。それはなんだろう。」


 人間であるために詩を書く。詩を書くために人間であろうとする。詩作において今とてもこの往還が重要だと考えているところでした。そんな折送られてきたこの一集は、私にはまさに詩的恵みともいえるもの。

 現実に生きる私はじつは人間以下のエゴイスティックな存在かも知れない。けれどこんな私でも詩という次元においてだけ、本来の意味での人間であること、あろうとすることは可能ではないかー茨木さんの詩と生き方は、そういう希望を私にあらためて与えてくれます。

 ゆっくりこの一集を味わいまた記事にしたいと思います。

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2023年4月3日京都新聞朝刊文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 今、人間の声がどこか聞こえがたい。胸の内から自分の思いを誰かに届けようとする真率な声の響きが、巷間(こうかん)から消えているように思えてならない。しかしだからこそ詩が存在するのであり、必要なのだと思う。ちょうど半世紀前、石原吉郎は詩の本質とは「ひとすじの呼びかけ」だと言った。「一人の人間が、一人の人間へかける、細い橋のような」声であると(「失語と沈黙のあいだ」『海を流れる河』)。
 紀ノ国屋千『美と伴に』(竹林館)の作者は1943年生まれ。長年労働者のサークルで詩を書き続けてきた。本詩集は約250頁(ページ)にわたる全詩集だ。通読し、久しぶり人間の声を聞いた爽やかな気分になった。作者は自然の美しさや人間の尊さへの詠嘆の思いから言葉を率直につかみ、詩を造形する。森羅万象のユニゾンに言葉は共鳴し、おのずとリズムを生む。触覚を中心とする表現力は、技術者としての経験から培われたものだろう。
 とりわけ水というモチーフに作者が鋭敏であるようなのは、京都で生まれ今も京都に生きていることと関係があるはずだ。例えば琵琶湖疏水と疏水を完成させた人々へ捧げる「疏水ー限りなき水へのオード」は、貴重な叙事詩でもある。一方、極小の一滴をうたいながら、無限大の「自由」へ想像力を羽ばたかせる巻頭作も胸に迫る。
「朱い木の実に朝露の衣/ぐうーん、ぐうーんと/伸びやかな朝/木々をとりまく 霧/霧に集う幾千の想い/私はちっぽけな/ホモ・サピエンス/この爛(ただ)れた文明に 立ちすくむ//キリはキリを集め/透き通る一滴/天空からの/贈り物//たったひとつ・自由の結実/自由はおまえ/おまえの宇宙/限りなく遊べ水滴//ひろがりのすべて/時の無限/慈しみとやさしさだけの世界//さぁ 行け 霧のボヘミアン/そして何時か/その美しい大地へ/私を呼んでおくれ」(「水滴」全文)
 この詩は、平和の象徴である鳩(はと)を主人公とする二十四才の時の長編詩「ー人民の中に飛び立つ鳩のためにー」と、「呼びかけ」において通底する。一羽の小さな鳩を「ウリヤーノフ」と名付け、その過酷な旅を想像し励ます詩だ。一点の輝く光となって消えた鳩に、平和への痛切な希求を感じる。
 武田いずみ『迷路屋』(版木舎)は、全体を見通せない迷路のような世界で生きることの不安と、そんな世界で人と人が出会うことのかけがえのなさを、切り詰めた言葉と的確な比喩で表現する。作中で何が起こっているのかは暗示的な表現から想像するしかない。だが作者が伝えたいのは出来事を超えたものだ。混沌(こんとん)とした世界で悲しみや喜びを、人間の声としてどう伝えられるのかを模索しているのだ。戦争にさえも対峙しうるのはやはり人間の声、「あなた」に名前で呼びかける「私」の声である。本詩集は、詩には今なお希望を創造する力があると教えてくれる。
さちえさんの え/江戸のえですか/枝ですか/とたずねると//衣です//と答えが返る//親の想いが、ね//八〇歳を過ぎた女性が/柔らかく/目を細めている//戦争のさなかに/言葉が見張られていた時代に/生まれた娘への名づけ/それは数少ない自由/作品にも似て//私があなたの名を呼ぶと/世界は/あなたを育てた人の/願いで包まれていく//今はまだ/どこかで銃声が響く毎日だけど/未来を歩く子どもたち/幸せの衣 まとって/裾が きらきら弾んで//呼んだ?//笑顔が振り返る」(「名前」全文)