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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2023年10月2日京都新聞文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 詩が分かるとはいかなることか。書き手は自分にも分からない心の動きを、詩表現によって捉えようとするが、大切なのは、分からなさをそのまま伝えることだ。心の動きを解き明かして書けば、詩は魅力あるものにならない。全て分かると確信して読めば、詩の魅力は逃げてゆく。「分からなくても分かる」という不思議な共感がなければならない。草が風に揺れるように、自己と他者が出会うために。
 伊藤悠子『白い着物の子どもたち』(書肆子午線)には、そのような不思議な共感の時空がひろがる。詩に固有の共感の力で、ハンセン病の隔離政策、コロナ禍、難民問題といった反共感的な社会問題と鮮やかに向き合う。記録写真や絵画や夢や映像で出会う人々への、ゆえ知らぬ憧憬が、絶妙なリズムと省略によって、ゆえ知らぬ切なさのままに伝わってくる。時に古えのイメージも透明に重ねながら。
「アラース、ああ/打ちつけてくる/深い森のほうから/白い樹々がざわめきながら/打ちつけてくる/やがて砂漠の家々からも/聞き取れない名前を持った町からも/呼び名だけのあたりからも/毎日/アラース、かなしい//ベルガモの聖堂に整然と並べられた柩/ここより他の町の火葬場へと運ばれていく/運ぶ軍隊の車列はヨハネ二十三世通りを通っていくか//たくさんの穴が掘られている/この星の眼窩のように/白い布でくるまれたひとが深く下ろされていく/できるだけ深くと//映像でみたひとはみな異邦のひと/近い死は隔てられ/身をかがめながら急いでしまわれていくよう/幾重にもビニールと布が遮ってくぐもる/それはわたしに望んでいた近似値の死かもしれない/とおもうとき/夕べの鐘のように/ひとり少女がブランコに来てこすれるその正確な音によって/生きる生活をつたえてくる/半そで 夏帽子」(「毎日」全文)
 藤本哲明『attoiumani_nizi』(思潮社)は、共感そのものをテーマとして書かれていると感じた。「分からないのに分かる」―草の揺らぎがおのずと伝播するような自他の関係の可能性を、一語一語模索するようだ。ポストモダン的な書きぶりも遊戯的ではない。思えば1980年代には自由な共同体の思想が様々に提示された。次第に忘れられていった共同体の可能性は、今、詩の可能性として蘇りうるのかも知れない。分断の果てにありうる「フラテルニテ(同志愛)」とは何か。本詩集の一見散乱的な文脈からは、未知の「フラテルニテ」への密やかな意志を、終始聴き取ることが出来る。
「こうして/ここもまた、/冬である//随分と/独り/であった//夕刻、/台所へ/とゆく//シケモクと/グレープフルーツ/の喰いさし/その、入り/雑じった匂い/こそ/あなた、/だったか//あなた、の/歌/であったか//それを/郷愁/としか/名づけられない//郷愁であった/と、/次はないが/(しかし/あなた、は/次、を奪ったのか/守ったのか)/次は/そう、/告げよう/と、/思う」
「まるで/忘れ去られた//インターナショナル・ヒットマン・ブルーズ//まるで/忘れてしまった/が//それでも、/タイチ、/イワサキ、リョウヘイ//(あなた、にあなた/そして、もひとり/あなた、だ)//固有の名を一字一句、眠るまえに唱えゆく//それが/ただひとつ/わたし、の/フラテルニテ/であって//忍従シテイル/あの、夜だけが」(「続・あの夜だけが」)f:id:shikukan:20231002122542j:image