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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

四方田犬彦「旧植民地下の詩人たちの映像」(「現代詩手帖」9月号)をめぐって

現代詩手帖」9月号に、四方田犬彦さんによる「旧植民地下の詩人たちの映像ー『空と風と星の詩人』、『日曜日の散歩者』」が掲載されています。

 

四方田さんは前者を「外部から受難と抵抗の神話を更新することはできても、詩を書くという行為の孤独さそのものを見つめてはいない」、あるいは「植民地下の朝鮮文学が日本の文芸思潮の圧倒的な影響のもとに成立した」という「文学史的に否定できない事実」を踏まえていないと批判しています。

 

それに対して後者からは、「台湾という視座から眺めた日本のモダニズム文化運動への共感と批判をめぐる新鮮な驚き」を受け取ったといいます。さらに同作は最先端の日本の詩とその背後のヨーロッパの芸術思潮にも目を向け、すでに1930年代に東京経由で「文化における世界的同時性」が台南まで到達していた事実を描き出している、と。

 

結局四方田さんは『空と風と星の詩人』について「残念なことに、韓国社会を重苦しく覆っているナショナリズムしか認められなかった」そうです。

 

私はまだ『日曜日の散歩者』の方は見ていないのですが、『空と風と星の詩人』については映画評論的には、四方田さんの批判は当たっているようにも思います。また詩的事実の次元においても、尹東柱はたしかに北原白秋立原道造や「四季派」など日本の抒情詩人たちに影響を受けたのだし、さらにそこから当時の詩における世界同時性を代表する詩人リルケを知っていったというのは、まぎれもない事実だからです。

 

四方田さんの評に多々頷きつつも、この『空と風と星の詩人』を全面否定することは、やはり私には出来ないでしょう。それは非常に素朴で根本的な理由からです。私にはどうしても詩や詩人を評価する時、巧みに作品を作ったかどうかや、文化的に世界同時性を獲得したかどうかという評価軸だけではこぼれ落ちるものがあると思っています。

 

大変素朴かも知れませんが、その「こぼれ落ちるもの」とは、詩が「本当に生きるという行為」を生み出す核としての小さな行為、自分が自分の手を握るような、孤独の底で共同性へわずかにでも向き直る行為として内側から捉える視点です。それは作品や年譜だけでは捉えられない内的な動性です。尹東柱の詩は、最終的にはそのような向き直る行為として現われ出ようとしていましたが、しかし果たせず終わったのだと思います。その未完の行為は、読む者それぞれの中で感銘や解釈や想像によって発露するのではないでしょうか。それが尹東柱の詩が私たちに持つ意味なのではないでしょうか。

 

抵抗運動家の従兄弟の触発によって、尹東柱は最期にその手を、孤独な「私」から虐げられた「あなた」へたしかに向かわせようとしていた。虐げられた朝鮮民族だけでなく「すべての死にゆく者」あるいは「絶え入る者」へとー。その「時代のように 訪れる朝」の光をこそ、見たい。

 

『空と風と星の詩人』は、尹東柱がそのように詩の孤独の中から行為へ、自己から他者へ向き直る過程を意識的に描き込める可能性はあったのではないでしょうか。ただ私はもう大分内容を忘却しているので、近いうち再見したいと思います。

 

ナショナリズムを超え、時代を超え、「政治と文学」というテーマを現在的に先鋭に表現することを試みることは、今映画にも詩にも求められている気がしてなりません。今を生きる者の中に眠り込もうとする意識を世界同時的に触発するためにー。