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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

7月20日付京都新聞 詩歌の本棚/新刊評

「詩人としての尹は、彼の詩よりもさらに詩であった。そして尹の詩は尹自身よりもさらに詩人であった」。今年二月十四日に同志社大学で行われた、尹東柱(ユンドンジュ)七十周忌の記念式典で、韓国の詩人高銀(コウン)が語った言葉。治安維持法下で危険を顧みずハングルで詩を書き続けた尹は、まさに詩を生きた人だ。尹の詩は、獄死に至るまでの苦しみの中から、つねに天を仰ぎ見た詩人の魂そのものだ。

尹東柱詩集 空と風と星と詩』(上野都訳、コールサック社)は、女性詩人による新訳。『空と…』の訳詩集は何冊も出ているが、上野氏は「尹東柱の詩が好きだ」という一言で翻訳を始めた。氏の訳は、現代語的で柔らかく透明感がある。抵抗の詩人と言われる尹の、新たな姿を見るようだ。空と星と交わる清冽な樹木としての詩人の、風に吹かれる樹木の痛みとしての詩―。

「召される日まで天を仰ぎ/いかなる恥もなさぬことを、/一葉(ひとは)に立つ風にも/わたしは心を痛めた/星をうたう心で/すべての滅びゆくものを慈(いつく)しまねば/そしてわたしに与えられた道を/歩いてゆかねばならない。//今夜も風が星にかすれて光る。」(「序詩」) 

江口節『果樹園まで』(同)は、前半で果実の存在のたしかさを、後半はひとの存在の危うさを、巧みな構成と展開で描き出す。なぜ果実か。それは作者が「内側で熟れていくおもみ」と「内側から充ちていくもののたしかさ」を、渇望するからだ。現実の希薄さと未来の不安が増し続ける中で、作者にとって詩は生きることそのものであり、熟れていく生がおのずと語り出す言葉である。

「内側で/熟れていくおもみに耐えかねて/口は/おのずから開きはじめる//おずおずと/ついには 十字のかたちで/完熟の/みずみずしく あまく//ひりひりと血の色の/あふれでる一言一言を/ゆびさきにはりつく薄皮で/ようやく つないで//そのとき/もう ことばではないのかもしれない/とろとろ/口の中で 果肉がくずれて」(「無花果」)

 松本衆司『涙腺の蟻』(ひかり企画)は、「存在の悲しみ」のあふれる心から、「いきいきと出口に向かって」「這い上がって」きた蟻=言葉たちの軌跡だ。「悲しみ」「幸福」「いのち」「涙」は、ややもすれば通俗的になりがちな言葉だが、作者はむしろそうした言葉をとおし、市井を生きる人間の体温を伝えようとする。深夜耳にする電車の音にも、亡父の生の痛みをいまだ聴取するのだ。

「森閑とした/死者の時間だ/電車が駅のホームに到着し/また次の駅に向けて発車する/枕木をかみしめる/音を刻んで/生きてきた人の/帰路//寒い冬の/夜の底で/なお暗い孤独が/沈黙している/そして、父の儚さがぼくに/轟いている」(「帰路」)

 高階杞一『水の町』(澪標)は、二十四篇中十三篇に「水」が出てくる。「あとがき」によれば、意図したわけではなく、おのずと「水」の詩集になったという。「無意識のうちにも時の流れを水の流れに重ねていたのかもしれない」。この詩集の平易さの奥には、不安と悲しみの濃厚な気配がある。霧が立ちこめ、雨が降り続く尹東柱の立教時代の詩作品と、遙かに繋がる「水」なのか。

「投げた石が/水に落ちて/波紋が広がっていく/石はとっくに水の底に消えたのに/石の声は/遠くへ/遠くへ伝わっていく//わたしのここにこうしてあったことも/そんなふうに/伝わっていくのでしょうか/いつか/誰かの岸辺に/小さな波紋となって」(「波紋」)