モノとコト。合わされば「物事」ともなるこの二つは、じつは詩作における重要な要素だ。もちろん詩の本体はコト、つまりテーマだが、どんなテーマも具体的なモノを書き入れ、読み手の想像力を触発しなければ伝わらない。その時初めてコトはコトとして立ち上がる。モノからコトへ――今、この方向性に注目したい。
尾内達也『二〇の物と五つの場の言葉』(七月堂)は、モノからコトへ果敢に向かう。第一部「物の言葉」は、言わばモノの詩的「デッサン」であり、第二部「場の言葉」でコトに挑むための言葉と感性の鍛錬とも言えよう。砂時計、鍵、ポリ袋、トイレットペーパー、燃えるごみ、蜜柑、泡などの身近なモノたちに言葉で迫る作者の心に、「かれら」は言葉を拒む危機的な実相を映り込ませる。
「朝のグラスに漆黒の夜を注ぐ。月のない黒。新しい光はグラスの外側にあふれるが、けっして中へは入ってこない。アイス珈琲は夜の領分に属しているのである。アイス珈琲の静けさには死体の手を握ったときの冷たさのような軽い驚きがある。その静かな黒を見つめていると永遠に言葉を拒絶していることがわかる。その拒絶に抗いながら、言葉を紡ぐと、それはもはや言葉ではなく、悲鳴であり、悲鳴ではなく、嗚咽である。言葉を壊すことで垣間見える黒――。」(「アイス珈琲」全文)
モノから聞こえた悲鳴、垣間見えた真闇は、第二部のアクチュアルなコトの詩へと通底する。本詩集は昨年中に22編で出版する予定だったが(あとがき)、ガザの虐殺などに直面し予定を変更。ガザやウトロの放火事件の詩を加え全25編とした。「現代詩はアクチュアルでなければならない」という信念が結晶化した次の作は、瓦礫の地に届く言葉とは何かを、旧かなまじりの寡黙な筆致で問う。
「月は眠らない――GAZAは眠らない(海も陸も敵意に満ちてゐる――止むことのない瓦礫の崩落――空はひとつの偽りである。//月の光の中で、面のない人形たちが群れてゐる。GAZAに言葉は届かない――悲鳴はいつも緑の小箱の中に隠されてゐる。//言葉を――透明な膜がかかつた言葉を――ナイフで切り出す、/痛み――血――詩――もはや、それはひとつの翳りである。//――今ここに「ある」こと、/今ここに「ある」ことでGAZAとつながる――、/まだ、雪は降らない、まだ、月は上がらない。//私があることで「死」とつながり、/私であることで「生」とつながる。//hic et nunc hic et nunc//光であれ――雪の、月の、」(「GAZA――今ここに「ある」こと」全文)
玄原冬子『福音』(版木舎)もまた五感を研ぎ澄まし、身近にあるモノから言葉を誘い出す。そして蘇るコト=孤独の記憶が、モノと浸透しあいながら、ひんやりともう一つの世界を拓いてゆく。次の詩で「私」は小さな花だ。新聞配達をする外国人の少女たちの姿に、密かに祝福を贈るための。
「その年の夏は燃えるような暑さで/平和だと信じた 海のこちらの小さな国にも/灼けつくようにゆらぐ季節があることを/少女たちは知る/(略)/―― トゥイ フィエン チュイ クィン ティー/どの名も 深い海を渡ってきた波のひびきで//ゆらぎはじめたヘイワを案じる異国の町の紙の束を/読むことすら儘(まま)ならないまま/その日も 無心に配り終えた//午後五時 日の射しはじめた路地の脇に/空のバイクを停めた小柄な少女たちは/あふれるような眼で 垣根に群れ咲く朝顔を見上げる//私は ただ そのときだけのために/空の色の花びらを ゆっくりと解く準備をする」(「朝顔」)