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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2024年2月5日京都新聞朝刊「詩歌の本棚・新刊評」

 倉橋健一『宮澤賢治ーー二度生まれの子』(未来社)は、30年以上前に刊行された賢治論を増補し復刊したもの。だが全く古びていない。詩人でもある著者の思索の言葉は、賢治についての固定観念を次々と打ちくだく。とくに「中原中也の関心」と「二度生まれの子」の章は興味深い。1923年から2年間京都に滞在した中也は、恐らくその間に富永太郎を介し賢治の詩を知ったという。やがて『春と修羅』の生命力に震撼させられ、空虚なダダイズムの方法から離れ始める。
 中也は「宮澤賢治の詩」で書く。「彼は幸福に書き付けました、とにかく印象の生滅するまゝに自分の命が経験したことのその何の部分をだってこぼしてはならないとばかり。それには概念を出来るだけ遠ざけて、なるべく生の印象、新鮮な現識を、それが頭に浮ぶままを、ーーつまり書いてゐる時その時の命の流れをも、むげに退けてはならないのでした」。その詩は中也や高橋新吉ダダイストを、創造的で新鮮な「野蛮さ」でつよく惹きつけた。
 「二度生まれの子」とは「徹底した厭世主義」をくぐり抜け、修羅から信仰へと蘇生する存在。連作「無声慟哭」は、「トシの死をつつむ全部の状況を、ともあれ自分の内面史として、叙事的に克明に定着させようと」する試みだと著者はいう。愛する妹の死に刻々とどこまでも寄り添う賢治の詩は、戦争や災害で死者が数としてカウントされ続ける今を撃つ。
 江嵜一夫『仮眠する雷鳥』と『沙漠の真珠』はほぼ同時の刊行(共に編集工房ノア)。前者は二冊の既刊詩集を合本した再版であり、冬山登山での極限状況を、新刊の後者はシルクロードでの異空間体験を描く。どちらも苛酷な自然に具現化した死に、自身のよるべない生を向き合わせる。死に触れられ仮象だった自己が実在となる瞬間を、見事な比喩や鮮やかなイメージでつかみ取る。一篇一篇が生を取り巻く死を描きだす、言葉の力によるスリリングなドラマだ。この二冊には登山や旅で作者が育んできた深い叡智が、時にユーモアも湛えつつ、死の闇の中の星のように煌めいている。
「垂直の最短距離を落石がはしった 帽子をとばし/男の休息していた後頭部に ジャスト・ミートした//小さな悲鳴を聞きつけ 這松の根っこで/仮眠中の雷鳥がむっくり起きあがった//不安定な足どりで近寄ると 遠まきにのぞきこむ/まっ青になった人間をしりめに//頭の割れ目にくちばしをつっこみ 目を細めて言った/ーーここんところが一番うまいんだ」(「雷鳥」全文)
「南疆鉄道の貨物列車と貨物列車が/マッチ箱がこすれるように/すれ違いざまに小さな竜巻がおこる/こちらに近づいてくるでもなく/黄色の火打石を落としてゆく//街路樹の銀杏をよけて/歩道の縁石を蹴って軽く飛ぶ/イスラム寺院の前で/羊肉を売る店の前に立つ/皮を剥かれた羊が鉤に吊るされ/客は部位を品定め/大柄な店員はナイフで肉を削ぎ/切り売りする/けものの命を断ち/肉を剥ぐ男の目つきは鋭い//一滴の水は血より貴重なのだ/水で流すこともなく/店の溝に血だまりが/わきの桶には臓物/毛皮と頭部が無造作に転がっている/この街は生臭い/人間も動物もみんな生臭い//秋、御堂筋の銀杏を踏みつぶして歩くとき/羊肉を売る店の前に立つ」(「銀杏のころ」全文)
  なお『仮眠する雷鳥』には、1981年に亡くなった京都の詩人黒瀬勝巳氏への追悼詩も収められる。
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