詩を書いていると、ふと「彷徨っている」という感覚を覚えることがある。それはまず詩作というものの、形式や意味から自由なあり方に由来するだろう。だが今を生きることもまた、彷徨の感覚をもたらしているのではないか。過去が未来を創造するのではなく、過去からはぐれ未来も見えないあてどなさが、今この世界を覆う。詩はそれをどのように捉えているか。
草間小鳥子『ハルシネーション』(七月堂)は、詩と時代の彷徨感覚をアクチュアルに重ね合わせる。「ハルシネーション」とは、AIが事実に基づかない情報を生成する現象、言わばAIが見るリアルな「幻覚」のようなもの。この詩集には誰が見ているのか分からない、現実のようでいてもはや(あるいはまだ)現実ではない世界が広がる。そのようなリアルとフェイクの境界を彷徨う「わたし」は、消えゆこうとする世界に指先だけで「読唇」するように触れ続ける。その触感を、硝子片のように美しい言葉たちがきれぎれに綴ってゆく。原発事故、コロナ、戦争が歴史意識、そして「わたし」と他者との関係を断絶させ、世界自体が彷徨い出したのか。だが全てが失われてゆくにしても、世界の消失のかがやきだけは失われない。そんなかすかな希望を本詩集は告げるようだ。その澄んだかがやきを微細に鏤めながら。
「薄いカレンダーをめくると/冬空の破線から鳥が滴る/立ち止まることさえ咎められる場所で/時を重ねることを成長と呼べるなら/歴史はより幸福なものであっただろう//樹上に溶けのこった粒状の瞳に/冬ざれた空のほころびから/自重でこぼれ落ちてゆく星が映る/赤黒くふくらみきった/みずから光ることもできない巨星が//あけすけな疑念をとりうくろって先を急ぐ/嘘を嘘だと認めながら責めずにいるように/すべての光は/目に入ったそばから虚像を結ぶ/遠くにぽつんと灯りが見えると/あれはわたしのための光ではないかと/すがるように勘違いをして/そんな都合のよさに救われる日もあった//世界は誰にも肩入れしない/だからうつくしく正気だ/視線の先/まばらに霧が立つ」(「日めくり」全文)
山内優花『きせつきせつ』(和中書店)もまた彷徨の感覚を日常の風景や出来事に投影しながら、柔らかに言葉を紡ぐ。作者の内面空間が舞台であり、明確なテーマに沿う展開がないのでやや読みにくい面もある。だがそれは、今を生きる感覚を、繊細にありのままに表現しようとするからだ。世界から彷徨い出した「わたし」と「わたし」から彷徨い出した世界は、窓が夕暮れに青く染まる間だけ、つかのま幻のように交錯する。「名前」を交わしあうように。
「窓が夕暮れの窓が目を見張るほど青く/染まる時間があって、名前を呼びたくなります//路面電車が通過する音がきこえる/寒い季節には踏切の音も/電車が通過するとき/すこし揺れて/引っ越してきたばかりのころは/地震と区別がつかなかった//夕暮れは退屈なのだ/ほかに考えることがないから/秒針の鳴らない時計と/書見台に開かれたままの本/どこかで犬が吠えている//乾燥した唇を/気にしているふりをしながら/夕暮れは/わたしが手離したものに/やすやすと捻じ伏せられている/抵抗もしない//いま/名前を呼ばれても/ふりむくことはできないかもしれない」(「青」全文)
