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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

HP「詩と絵の対話」更新

HP「詩と絵の対話」更新しました。今回のゲストは君野隆久さん。難波田史男という1974年に32歳で「この世から消えた」画家について、エッセイを書いていただきました。私は若冲の絵「芍薬群蝶図」をめぐる詩とエッセイを書いています。どうぞご高覧下さい。

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2020年5月18日京都新聞・「詩歌の本棚/新刊評」

 今ウイルスという極小の存在が、人と現実との関係を根本から動揺させている。詩を書く者もまた揺るがずにはいられない。だが詩を読んだり書いたりすると不思議と心は鎮まる。詩は言葉という極小のものと人との関係に重心を持つからだと気づく。恐れや不安より深い視座から状況を撃つ言葉を、詩に求めることは出来るのではないか。
 石井宏紀『聖堂』(思潮社)はずっしりとした詩の重心を感じさせる。ここにあるのは叙景詩でもあり、叙情詩でもある。自然に身を置き溢れた詩への衝動と、言葉と丁寧に関わる深い喜びが伝わって来る。情景は決して明るくはなく、死の気配さえ漂う。だがそれを貫く言葉と関わるひんやりとした喜びは、まぎれもなく生の側にある。それが現実を微かに凍らせ、詩という「異界」へ昇華させていく。どこか崩れそうな危うさも含みつつ。
「雪が降り始めた/雨の匂いをたしかに背負いながら/ひとに何を告知したいか/今天空に向って一直線に翔けていることを/悟らせようとしているのか//ナノの世界からひとの細胞の螺旋へまで/ひとつひとつ/わたしの在りようを問うのか/白さと冷たさだけを取り出して/鼻を捨て耳を捨てそして口を捨て//昨日の碧空の無用と/地上に施された色彩の無用とを/声のない白は叫んでいるのか//そして居たたまれなくなって/雲から手を放したのか」(「ゆき」全文)
「俳句でも短歌でもなく、ましてや小説でもない詩を描いてきて、不思議な異界に飛び込んだと、次第に思い始めていました。それは語彙や語彙との組み合わせ、それをさらに文章の世界に組み立てる。そして指先までの語彙の細やかなこだわりと、それなりの折り目正しさの生成までの道のりです」(あとがき)
 利岡正人『開かれた眠り』(ふらんす堂)の詩行は、時代の恐れや不安を映し出しながら、その底を這い進むように続く。出口や解放を求めてではない。未来は崩落し続け人は失業するために労働する。何も自分のものにはならず「身元不明の髑髏」となるだけだ―。厭世観や諦念が低めた位置から、可視化される風景のざらつき。言葉は自己と現実の間の亀裂を、無機的かつ繊細になぞる。この作者もまた労働の日々の底で言葉との詩的関係によって生き、生かされているのだ。
「我を忘れて けれど 何もかも忘れてという訳にはいかない/後に未練を残さぬよう 身も粉にして掘っていたが/聞いた話によると 頃合いの穴というのがあって/ひとり横たえるくらいの大きさが丁度よいと言う/ところが 私の掘る穴ときたら 地中ばかりか宙にも穿たれ/頭上のそれは仕事が終わっても私につきまとい/居場所を転々と おさらばして姿をくらますことのできる穴を/しばらく居座らせる 自宅のカレンダーや履歴書の上に」
「他のことに見向きもせず 補修作業に没頭しているうち/やがて日も暮れ 現場終わりの私の目の前にあるのは/並外れて大きい ぽっかり開いた穴 埋め合わせできぬほど/私が黙々と働くのは 腫れ物のような充実のためというより/寝るのに狭くない この身に合う底を求めて/夢中になれるくらい働かせてもらったおかげだろう/言葉も入り込める 大きさの穴ができたようだ」(「穴を掘る仕事」)
 淺山泰美のエッセイ集『京都 夢みるラビリンス』(コールサック社)は、作者の記憶がいまだ揺らめく京都を描く。時代の底で変わらぬ人や物の陰影―。詩の原像とでも言えるものが、この町には確かにいきづいている。

「二重の空虚、未曾有の自由ー『八田木枯全句集』を読む」(『ふらんす堂通信』164号)

ふらんす堂通信』164号に「二重の空虚、未曾有の自由ー『八田木枯全句集』を読む」を書いています。俳句について初めて書いた文章です。木枯俳句が明かす五七五の生命力と、十七音に絡み合う空虚の魅惑。句から想像される三島由紀夫への思いにも触れました。詩を書く人にも読んで欲しい。f:id:shikukan:20200519111238j:image

李龍徳『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』(河出書房新社)書評 2020年5月17日付「しんぶん赤旗」

 増え続ける外国人への憎悪犯罪に対し、いまだ抜本的な対策が取られない日本。その今を生きる在日三世の作家が、近未来のディストピアを生きる同世代の苦悩を、息詰まる会話と展開によって描き出す。今からほんの先の未来、特別永住者の制度は廃止され、外国人への生活保護が違法となり、公的文書での通名使用は禁止、ヘイトスピーチ解消法も廃された。つまり「排外主義者の夢は叶った」。
 二人の人物が物語を展開させる。在日の生存を守る活動を単独で模索する観念的でクールな太一と、仲間と活動し、文学と政治の間で理想を貫こうとする直情的でナイーブな李花。対照的な二人だが、アイデンティティの不安と孤独の中で世界を変えようと真摯にもがき続ける。
 親日派に共感する父への反抗心を持つ太一は、李花の設立した青年会に入るがやがて日本の選挙運動に飛び込む。だが与野党が差別政策の見返りに夫婦別姓同性婚の合法化で合意するという政治の倒錯に見切りをつけ、ある殉教的な計画を立てその「駒」を探していく。一方李花は「帰国事業」と称し会のメンバーと渡韓し、自己探求のための自給自足の生活を始めるが、近未来のかの地もレッドパージの吹き荒れる国だった―。
 様々な人物の台詞に、作者が苛酷な現代に向き合い積み重ねてきた思想が感じられる。ふと煌く言葉が突き刺ささる。
「私たちは、この虚しく苦しい世界に共に虚しく苦しめられながら、それでも共に生きてゆきましょう」「この世界の、息もたえだえに登りきった果てのその光景は、きっと美しい。共に信じよう」「差別の問題とは死なないことなんじゃないか? ひょっとして、誰も死なせないことなんじゃないのか?」
 たとえ希望はなくとも世界を変える意志は続く。意外な結末で終わるこの小説は、そう教えてくれる。ここに溢れる善き世界への痛切な思いを、今を生きる多くの人に届かせたい。

宇梶静江『大地よ!』(藤原書店)書評 2020年5月10日共同通信

八十七歳の古布絵作家・詩人が同胞への遺言として綴った自伝である。

 北海道のアイヌ集落に生まれた作者は、幼時から農業や行商に明け暮れる中、カムイ(神々)と共に生きる大人たちの姿から、民族の精神性を魂に刻まれる。だが旧土人保護法以降尊厳を根こぎにされたアイヌの生活は、戦時中さらに厳しさを増していく。昆布採り、酪農、農業と変転する暮らし。兄姉の奉公。貧しさと「イヌ」と蔑まれる差別から学校を長期欠席する子供たち。作者の中学入学は戦後20歳の時である。
 上京し結婚後始めた詩作が「内なるアイヌ」が目覚めさせた。38歳の時新聞に投書し注目される。作者は北海道から東京に移り住み出自を隠して生きる同胞へ呼びかけた。もう一度アイヌを、差別を見つめよう。連帯し誇りを取り戻し「真の解放」を求めよう―。
 その後権利獲得運動に乗り出すも、やがて壁にぶつかる。行政だけではない。どうか放っておいてという大多数の同胞に巣食う空虚だ。だが同じ空虚は自分にもあった。アイヌをテーマに出来ないまま詩作も途絶えた。
 だが63歳で古布絵と出会う。村での記憶が蘇り、アイヌの世界と創作が重なった。「アイヌはここにいるよ」という思いをフクロウの赤い目に託した。「ユーカラ」にも親しみアイヌ刺繍も織り込む。作者自身のアイヌが表現を獲得
し、ついに「大地」に立った。
 言葉が「天から零れ落ちて」きて詩作も復活する。「内なるアイヌ」が「アルラッサーオホホオ」と声をあげた。アイヌの精神性こそが「人間であることの根源から生まれてくる光」だと確信した作者は、同胞が個々に立ち上がる運動を今に至るまで実践していく。
 3.11に寄せた詩「大地よ」は「大地よ/重たかったか/痛かったか」と始まる。自然の重みと痛みへの感受性を世界はどうしたら回復できるのか。今を生きる者全てに「内なるアイヌ」は眠る。本書に響く声に耳を澄ませて、目覚めさせたい。

HP「詩と絵の対話」更新

HP「詩と絵の対話」を更新しました。

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今回のゲストは水島英己さん。ブリューゲルの絵とその絵に触発されて書かれたオーデンの詩を取り上げ、「災厄」への両者の眼差しの違いを捉えながら、現在の新たな「災厄」と向き合うヒントを模索した、力作エッセイです。

 

私は若冲の「果蔬涅槃図」をモチーフとした詩とその解説を書きました。涅槃図のカリカチュアとも言われるこの絵には、じつは若冲の涙が滲んでいる? さて皆さまのご見解はいかがでしょうか。

2020年4月6日付京都新聞文化面「詩歌の本棚・新刊評」

 羇旅歌というジャンルがある。旅の体験や感慨をうたう詩歌で、『万葉集』が始まりとされる。十年以上前、私も紀州・熊野を幾度となく旅し、京都に戻るたびに詩を書くという体験を続けた。彼地の様々な美しさへの感動を、それが醒めやらぬうちに机上で言葉に解き放つ喜びは、何にも代え難かったと今でも思う。
 松沢桃『ウシュアイア』(砂子屋書房)は、「最近二年ほどの旅に材を取った第七詩集」。急逝した夫の三回忌を終え、ようやく悲しみに向き合えるようになった頃、作者は旅支度を始める。地球儀を見ながら夫と話し合い、二人で訪ねるはずだった地も含め十回渡航。帰国のたび「詩作に没頭」したという。「生きるため、死んでいたワタクシをとりもどすため」に。「空白を埋めるかのように」「朝も昼も夜もなく」「鉛筆が時を刻んだ」。
 メモのような名詞止めの多用や、無駄な形容詞のない文体には、訪れた土地の乾いた詩情と、出会った風景に礼節を保とうとする作者の姿勢を感じる。ふいに行間から射す異郷の光は、蘇生の光である。

「ぴりぴり きりきり ひりひり/索めるものが ある/細胞のすべてが アンテナ//想いが凝って 人形(ひとがた)となり/最果ての地に たどりついた//ティエラ・デラ・フエゴ国立公園/みつけた 痕跡/最前線の木立のみが 一様に傾ぐ/はげしく斜めに 幹も枝も/アンデス 太平洋 南極 三方から吹きつのる/風の坩堝の 現場//出遇いは 突如訪れる/予想だにしていなかった場所/コンドル展望台/フィッツロイ山の朝日観賞をするため/夜中の登山/展望台は 風速五〇メートルの岩場/岩にしがみつき 夜明けを待つ/ひたすら
飛ばされないよう 身をかがめ寒気に堪える/ついに/淡い朱に輝くフィッツロイが あらわれた」(「ウシュアイア」冒頭部分)
 守口三郎『劇詩 受難の天使 世阿弥』(コールサック社)は、英訳詩も収めた英日詩集。昨年六月に亡くなった作者は英文学者でもあった。劇詩とは「上演を直接の目的としない劇的様式による詩作品」のこと。本詩集の二篇は共に「夢幻能」の「様式美」をそなえる劇詩である。「受難の天使」は「人類に火と技術を伝えたために責め苦を受ける半神プロメテウスの神話」、「世阿弥」は晩年の世阿弥が題材である。とりわけ佐渡への流刑から発想された後者は、この室町時代の能役者の深い思想を知る上でも興味深い。
佐渡へ流された後の世阿弥の消息は、伝存する小謡曲舞集の『金島書』と金春大夫(禅竹)宛書状一通によって窺い知るだけで、その終焉の地も没年も不明で世阿弥晩年の実像は謎に包まれている。私は、神仏に帰依し、悟りを求め続けて救われる人間を想像して描いた」。両作ともにワキが旅人であるのは面白い。旅人には怨霊も心を開くのだろう。(紙幅の都合で引用出来ないのが残念だ。)
 安森ソノ子『紫式部の肩に触れ』(同)も英日詩集。京都で生まれ、世界を旅しつつ今も京都で暮らす作者の、故郷と異郷のそれぞれへのオマージュ詩が収められる。
「川幅一杯の白い落下は/水鳥を迎える大スクリーン/泡散る浅瀬に/般若の面も小面も沈ませて/晩秋 一人岸辺の/難路の地図帳/流れの奏でる底力に/亡くした家族の/京都を研ぐ//陽光のもと/渡る水の面の表情/生地の川 青の霊/死者ののぞみは/空の書状の帯を/流し続けて/この環境よ/未来への夢抱き/ふるさとの京の街/永遠に」(「鴨川で」)