#title a:before { content: url("http://www.hatena.ne.jp/users/{shikukan}/profile.gif"); }

河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

HP「詩と絵の対話」更新しました。

お知らせです。

HP「詩と絵の対話 」を更新しました。ゲストはフィンランド在住のアーティスト清水研介さん。私は若冲連作詩(2)とその解説、「古賀春江の詩の海」(1)を書いています。ぜひご高覧下さい。

以下のURLです。

https://shikukan.com

本サイトでは絵と詩の関係を具体的なすがたで見ていきます。そこから詩とは何かへの新たな答えが、色とかたちを伴って鮮やかに描き出されることを期待してー。

 

 

 

2019年5月6月日付京都新聞文化面「詩歌の本棚/新刊評」

  最近一九七〇年代の詩や詩論を読む機会がなぜか多い。六〇年代の政治の季節以後失われた連帯を、内面を突きつめることで模索した言わば「内向の時代」。代表的詩人として「プロレタリア系前衛派」の黒田喜夫がいる。「詩は飢えた子供に何ができるか」という問いを、政治の次元より深く自身の心に潜む「飢えた子供」の問題として捉え直し、そこから幻想的な詩や斬新な詩論を生み出した。
 米村敏人『暮色の葉脈』(澪標)は第六詩集。作者は黒田氏との親交が深かった。黒田氏の著書『負性と奪回』(三一書房、七二年)に収録された対談は、吉本隆明氏の『共同幻想論』を鋭く批判する。また米村氏は著書『わが村史』(国文社、七三年)で、吉祥院(京都)の「村」での少年期の記憶と、黒田氏の「飢え」の思想に共鳴しながら向き合う。いずれも今の詩にはない、「実存」をかい潜った言葉の力に圧倒される。
「あとがき」の一節が印象的だ。「地上に言葉、地下に沈黙。その間に一本の荒縄が降りている。そこに私の詩もぶら下がる。」この「地上」は意識、「地下」は無意識か。あるい詩を書く自身を含む言葉を持つ者の場と、様々な意味で言葉を持てない者の場なのか。「荒縄」に詩が「ぶら下がる」イメージは、不穏に身体的だが、本詩集の詩の多くは、心の傷に触れるように感覚や記憶を遡って書かれている。実父母や継母の痛切な記憶、虫や葉への危うい共感。自身の「高所恐怖症」を遡る詩「高い高い高い」から末尾を引く。
「ついこの間/生まれて初めて/サーカスなるものを生で観た/演し物の最後にキリンが出た/五米余を下から見上げた時/ふと滑り台の恐怖が甦った/キリンよりずっと低いはずだが/あの頃の目線ではほぼ等しい/一瞬キリンの胴体を時間が遡る//姉からはぐれ/途方に暮れていたとき/私の脇を抱えて/背後から(高い高い高い)をしたのは/いったい誰だったのだろう/ふんわり持ち上げられた高さは/父親におんぶされた背中と/同じくらいの/安堵の高さだった」 
 病床の黒田氏の姿も描き入れた巻頭作「新聞紙(がみ)三態」も興味深い。
 荒木時彦『crack』(アライグマ企画)は小さな実験詩集。頁を開くとまず、各見開きのノドから広がる余白によって意識は亀裂を入れられる。すると番号を振られ左右の小口に寄った寡黙な詩行が、同時に目に入りふいに声を和すように感じられるのだ。「かかと」「夜」「雪」「欲望」などをキーワードとしつつ、この詩集のテーマは、レイアウト自体が体現する「crack(亀裂)」なのだろう。当然それは、作者の内面と日常の双方にも走っている。
「右足のかかとを落としてきてしまった。//数日前のことだ、たぶん。/夜を見失ってあわてていたとき。」(「1」)「饒舌が、かかとを苦しめたのかもしれない。」(「2」)「かかとが小さな欲望について行く。/夜は巻き添えにされただけだ。」(「14」)「多分、その小さな欲望は、/オレンジ・ピコーのようなものだ。」(「15」)「小さな欲望の残りかすのせいで、/紅茶の葉は未解決のまま。」(「16」)「椅子に座る午後。/クラック/亀裂(が走る)」(「17」)
 リジア・シュムクーテ詩集『煌めく風』(薬師川虹一訳、竹林館)も、異国で生きるリトアニアの詩人が感受する、甘美な「飢え」と「亀裂」を見せる詩集だ。
「ウズピスは/ヴィリニュスの風説の壁//街角を曲がれば/蜘蛛の巣が/不安
げに待ちうける//屋根の花は枯れ//一つの夢が飢えから生まれる」(「ウズピスは」)

2019年4月22日しんぶん赤旗文化面「詩壇」

  3月11日を奥付に記す中村千代子『タペストリー』(グッフォーの会)に深い感銘を覚えた。タペストリーとは室内を飾る西洋の織物。機で絵柄を織り出し、完成まで何年もかかるものもある。作者は長い歳月をかけ死者たち(作者もまた大切な人を失ったのか)の蘇生を祈りつつ、20篇の被災地の幻想の情景を織り上げた。思考と感情の縦糸と繊細な日本語の横糸で。
「萌生の湿地はしろい水域をひろげ/止むことのない粒子が春を阻んでいる/とじられた錆びの柵戸をゆさぶって/真昼の月を劈く/消滅してゆくものが視ている凪ぎの海/目の臥せを縫いとってゆく灰/弔鐘は最後の耳を塞いで/背骨の海を撓ませる」(「1」)

  放射性物質を「止むことのない粒子」と表現することで、作者は詩の矜持を守った。この詩集の修辞がやや難解なのは、一語一語に長い歳月の悲しみを込めたからだ。なぜ多くの人が死なねばならなかったか、故郷を去らねばならなかったかという問いへの答えを、言葉を尽くし模索したからだ。
  原発事故に土地を奪われた人と牛の姿。「噛み返しの涎をいくすじも垂らしてうごかない/背を拭き背を撫で無言をこぼして/牛を牽いてゆくひとは/草の地を牛の地を捨てなければならない/風は杙のあたりに冬の実をよせている/まぼろしのような生に/ひと鞭を放ってたち竦む/塔に灰はふりつづけ/草がみだれても廃墟になりえず/おおいつくす灰の積み荷」(「5」) この後牛は河口を下り、人は天を仰ぎ牛追い唄を聴く。
  細部までもが魂のプリズムを通し描かれる風景は、やがて蘇生の場となる。復興の掛け声が席巻する中、このような詩が密かに書き続けられていたことに救われる思いがした。

HP「詩と絵の対話」を開設しました。

詩と絵の間にある豊饒な関係に、詩作品、論考、エッセイで分け入るHP「詩と絵の対話」を開設しました。以下のURLです。

https://shikukan.com

ここでは絵と詩の関係を具体的なすがたで見ていきます。そこから詩とは何かへの新たな答えが、色とかたちを伴って鮮やかに描き出されることを期待してー。

 

第一回は若冲連作詩やその解説、また「清田政信の黒」というエッセイを書いています。

 

どうぞご高覧下さい。

2019年3月26日付しんぶん赤旗文化面「詩壇」

   一九九八年一月に享年四十九歳で亡くなった詩人・小説家川上亜紀氏の新刊小説・カシミア』(七月堂)が出た。川上氏が所属した詩誌『モーアシビ』(編集発行人白鳥信也)も、別冊で追悼特集を組む。

  学生時代から難病と闘いながら書き続けた。上記の他に詩集は四冊、小説集は治療体験を描く作品を収めた『グリーン・カルテ』(作品社)がある。『チャイナ』の解説で笙野頼子氏は言う。「その編み目に狂いはなく欺瞞はなく、そこにいきなり生の、真実の「小さい」感触が入ってくる」。「真実の感触」とは詩的な物質感のことだろうか。あるいは鋭敏な自己意識、幻視、ユーモア、何より病苦を、今を生きる幸福へ解き放とうとし続けた意志か。

「彼方の砂漠の国では戦争があり/あなたはそのニュースを聴きながら/来たるべき瞬間のために爪を研いでいた/雨の匂いは重くたちこめて/湿度の高いこの国の上空には/いくつかの花火が上がっていた」(「夏 1」)

 若い頃の作だが、心に秘めたつよい反戦の思いを感じる。氏のツイッターから、戦争法案が強行採決された二〇一五年夏、病身を押して国会前に行っていたと知る。中でも次の言葉に深い感銘を覚えた。「強行採決は予測されたことではあったと言ったけど、それはなにをしても無駄だという意味ではなくて、ただ長い道のりなんだということ。デモも署名も意見の表明も、それからただ考え続けることもなるべくいやな気持にならないでその日その日を過ごすことも。」

  人間の苦難にどこまでも寄り添い励ましてくれるものが、詩なのだ―。川上氏の珠玉の言葉は今も詩の光を放ち、時代の闇に抗している。


2019年3月18日付京都新聞「詩歌の本棚/新刊評」

 ここ最近、ある絵師の絵をテーマに連作詩を書いている。試しに一つ作ってみると面白くなり、いつしか連作になっていた。絵という無言のものに、言葉でぶつかっていく時の解放感。絵の強烈なイメージの力に揺さぶられ、言葉におのずと新たな生命力がもたらされる実感。恐らく詩は詩だけで煮つまるのだろう。他の芸術と向き合い触発されることは、たしかに重要だ。詩が世界へ豊かに開かれ、生命を更新するために。 

  江口節『篝火の森へ』(編集工房ノア)は、神戸三宮にある生田神社で毎年行われる薪能のパンフレットに寄せた、各演目をテーマに書いた詩をまとめた。歴史が浅く、形式も自由でテーマも時代に影響される現代詩によって、「六百年の歴史をもつ能楽の堅固な様式」に向き合った。「能に向き合うには、自分がぶつけたことのない生々しい情念を正面に引き据えざるを得ない。私には最初、これが辛い作業であった。しかし、能のプロットに被せて想を進める方法は、無理なく徐々に内側を開いていくことができて、次第に解放感に浸るようになった」。こうした作者の感慨が逆照射するのは、個に閉ざされたがゆえに現代の情念を表現する力を失った、今の詩の有様だ。

「今は 己が闇に穴居する者/闇と知らず闇を抱えるもの/荒ぶるそぶりも見せず/和らぐ振り まつろう仕種(しぐさ)に//知らず/千筋の糸に巻き取られていく/空見つ 日本(やまと)の美しき緑/幸豊けく みちのくの海/ここに消え  かしこに結ぶ水の泡の/セシウム トリチウム ストロンチウム//もはや土蜘蛛とはできぬ/天降(あも)りましぬ神々の末裔 われらを/何と名づけよう/平らげる武者たちも無き/世の果てで」(「千筋の糸」)

 根本正午『仮象の塔または九つにわかたれたあのひとの遺骸をさがす旅』(書肆山田)は、仏、鬼、罪人の姿を収める大曼陀羅図(だいまんだらず)にならった構成だ。入れ子状の八一の散文詩篇で、「一つの巨きな正方形」を螺旋状に形作る。「日本語の中心にあるうつほを「あのひと」と名付け、周辺を埋めてゆくことによって、その空虚に形をあたえようと試みた」。そうしたテーマと形式が、ひらがなの多用と語の反復により一体化しうねる。句読点なしで延々と続く語りは、シンガポールで子供時代を過ごした作者のどこかに宿っているはずの、熱帯の生命力さえ感じさせる。

「くさりおちた肉は花に食われ千年に一度咲くという青に染まる下着の汚れよりこねあげた子供の親の子供の親の子供の親の子供の親の透明な家にいない父の面影で柱がもえていて塔をつなぐ道にたおれた兵士たちの骨が散らばる広場の皇居のスルタンの祈りの声がひびいてくる七億の色のステンドグラスよりさしこむ生者の世界より声がきこえてくるお父さんとよぶ声がだがなにもこたえることができず(…)」(「1右上の脳」)

『言葉の花火2018』( 竹林館)は、三年に一回のペースで制作される詩集の第七号。関西詩人協会会員の詩(京都の詩人も多数参加)に英語の対訳を付ける。昨秋逝去した佐古祐二氏の詩「親しきひと」は、死に触れ生が思わぬ燦めきを見せた一瞬を、絶妙に捉えた心象スケッチだ。

潮騒が/忘れられた麦藁帽子を洗うたび/真夏の喊声(かんせい)を切れぎれに運んでくる//死と向きあう/とひとはいう/が考えてみれば死は/座っているのだ/私の傍らにそっと/親しきひとのように//その親しきひとが私に語りかける/海が光っている/こんなにも海が光っているね/と――/白い帆に追風(おいて)を孕(はら)んで沖をゆくヨットの影」(全文)

 

2019年2月20日付「しんぶん赤旗」文化面・「詩壇」

  昨年10月詩人・仏文学者の入沢康夫氏が亡くなった。宮沢賢治やネルヴァルの研究、詩集『ランゲルハンス氏の島』『わが出雲・わが鎮魂』などで知られる。1980年代に現代詩の世界に足を踏み入れた私は、「詩は表現ではない」「作者と発話者は別だ」という主張を、当時流行したポストモダンに与するものと捉え、現実に向き合う詩を否定しているといつしか思い込んでいたらしい。

  代表的な詩論集『詩の構造についての覚え書』(思潮社)を再読した。ハッとしたのは、初版の刊行が1968年、つまりいわゆる政治の季節の最中であること。じっくり読み進めると、件の主張の背景にある文脈が見えて来た。かいつまめばこうだ。詩が作者の純粋な表現だとして構造や関係を省みないことが、詩をゆきづまらせている。詩の諸要素の関係を解明し構造をダイナミックなものに鍛え直し、詩を「感受性の新しい容れ物」にして現実と対峙すべきだ―。

  注目したのは以下の内容の箇所だ。構造=「つくりもの」でない詩はない。だが「つくりもの」という観念は「うさんくさい」。なぜなら権力者が「自らの秩序を、それ自体が一つのつくられた秩序であるくせに、自然の秩序の名の下にそれを隠蔽しつつ、広く及ぼし、そしてこれに対立する秩序を構想することを「つくりもの」として人々によって排斥されるようにしむけて来た」から。それに対し詩は、自身の「つくりもの性」を自覚しその可能性を追求することで、支配者の意図をあばきうる。詩の反逆性としての自由と倫理を突きつけうるのだ―。

 『現代詩手帖』2月号も特集を組む。すぐれた詩人の営為を忘れず、その真意に今こそ耳を傾けたい。