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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界がかがやきわたる詩のプリズムを、探しつづける。

『詩と思想』一・二月号

詩と思想』一・二月号で、黒川純さんが、昨年一年私が担当した投稿欄について触れて下さっています。私が最優秀作品に選んだ佐々木漣さんの別の投稿詩の一節の引用も。
 今号は選評の他に最優秀作品として、秋亜綺羅さんは藤川みちるさんの「聖誕祭」を、私は佐々木漣さんの「黒い稲妻」をえらび、両作が掲載されています。どちらも若き新鋭の力作です。ぜひご一読を。

ちなみに以下は私の最後の選評の文章。

「さらなる詩作へ―

 最後の選になった。短い間だったが選評を繰り返すうちに、現代詩への新たな評価軸が、自分の中に新鮮な裂け目のように生まれてきた。毎回真摯に投稿してくれた方々のお陰だ。心から感謝とさらなる詩作へのエールを送りたい。なお本年度優秀作には、7月号の佐々木漣「黒い稲妻」を選んだ。他にも値する作品は複数あったが、この作品の心というより網膜に残る異貌さと、自然を反自然化しようとする意志は、現代詩というものの本質にあるべきものだと思うからだ。」

一年間投稿欄に、自身の詩の今を投じつづけてくださった全てのみなさん、ありがとう。

 

 

2016年12月19日付京都新聞「詩歌の本棚・新刊評」

『セレクション 有馬敲言行録』(田中茂二郎編、土曜美術社出版販売)が興味深い。「生涯を京都から離れずに暮らしている土着の京都人」である有馬氏は、オーラル派(戦後の自作詩の朗読運動)の代表的詩人。「一九六〇年代後半の京都を欠くべからざる発火点にしている」同派は、「関西フォークソング運動と並走しながら発展していった」が、氏の詩と朗読は「その導火線の役割を果たした」。同書からは当時の京都ならではの熱気が伝わってくるが、特に六九年の高田渡氏とのエピソードが時代を象徴して面白い。喫茶店で有馬氏が朗読した詩「変化」を、その場にいた高田氏が面白がり、やがて少し言葉を変えて曲をつけ、持ち歌の一つ「値上げ」が生まれたという。激動の時代に歌うように書かれた詩と、詩を求めていた歌は、政治への怒りと人間への愛において一瞬で共鳴したのだ。なお同詩は「値上げはぜんぜんかんがえぬ/年内値上げはかんがえぬ」で始まり、あの手この手で徐々に表現を変え「値上げもやむをえぬ/値上げにふみきろう」で終わる、政治の本質を衝く風刺詩だ。
 一方『現代詩文庫 有馬敲詩集』(思潮社)はアンソロジー。前半では思いがけず実存主義の陰翳が濃い作品が目を引いた。当時詩人は銀行で重責を担いながら詩を書いたが、その苦悩と歓喜が、観念と身体のはざまから静かに滲むように表現されている。
「かえる方角とは逆のほうへ/この身を白日にさらして/つかめない空のなかへ/熊手の指を振りかざせ//まっ暗闇のなかに/はじけて散る火花よ/とろけ込むはらわたを/この手でつかみだすのだ//ふるい観念にえずいて/なんども息を吸いこみ/その苦しみに耐えながら//地下への階段を降り/人工の渦のなかへ/吸い込まれてゆくのだ」(「終わりのはじまり」117)
 なお有馬氏は「生活語」を用いた詩作を提唱する。「生活語」とは、共通語と対等なものとしてある「方言」。それは本音の詩の言葉となり、歌詞としても力を発揮する。『現代生活語詩集2016 喜・怒・哀・楽』(全国生活語詩の会」編、竹林館、ちなみに有馬氏は同会会長)は、「北海道から沖縄まで一三三人の詩人による交響詩」。全てが方言で書かれているのではないが、朗読すれば「生活語」のイントネーションが立ちあがるだろう。昨年永井ますみ氏は二〇一四年版を手に全国を巡り、参加詩人たちの朗読をDVD三枚に収めたという。
 秦ひろこ『球体、タンポポの』(書肆侃侃房)は、自分の中に今もいる「小さい頃からの/子どものわたし」の「怖じるを知らない/すなおなパワー」がおのずと呼びよせる、生きものたちの言葉の気配を、ひらがなの耳をそば立てて捉えようとする。鷹、翼竜、蛇、愛犬、人形、ハヤブサ、蝶、タンポポ、セミ―。降る雪の、言葉を越える音楽を捉えた詩「みあげるゆき」は、眩しい。ひらがなが言葉の観念を溶かし、生きものたちが見るのと同じ白さが見えてくるようだ。
「しろいかたちにふるものは/いまにすがたをあらわした/いまはない時間(もの)/そのむおんのひたすら/あわただしさを立ちどまらせる/あんじのかたち//いつのまにかききいって/視覚のおんがく/みつめるものをとりこむ魔性/みあげるうち/ふりくるまわたの化身らの/きこえぬおとのいきがふれてきて//ふしぎなけはいのおんどのなか/いまをとめたみあげるものは/ゆきのなかをさかのぼり/なにとわからぬ/いまはない時間(もの)にかえっていく」

十一月七日付京都新聞・詩歌の本棚/新刊評

宗秋月全集―在日女性詩人のさきがけ』(土曜美術出版販売)が出た。二〇一一年に六十六歳で亡くなった女性詩人のほぼ全仕事を網羅する。終戦一年前に生まれた宗は戦後と共に生きた。だが彼女にとって戦後とは、まさに「在日を生きる」痛みと喜びのあざなう身体の時間であり、詩はそのただ中から迸る証言としてのうただった。詩人の言葉は何もまとわず何にもまつろわない。こちらの胸がすくほど真っ直ぐ魂の鼓動を伝えてくる。

「りんごの果肉をかじる/したたる血の/なんと透明なこと。//りんごをにんご/と 言う母の/ナムアムタプツ/南無/なむあむたぷつ/咽いっぱいに浸透(しみとお)る経/余韻を舌にまどみつ絡めつ/こぶしに充たぬ胃袋に/溶け堕ちる日本語のうまみ/芥の煮たぎる河に沿う/腸の煮たぎる街のなか/庇の下の物売りの母/埋くまる胸が/りんご/ひとやま 百円//こうてんか」(「にんご」全文)

 『竹内正企自選詩集』(竹林館)の作者は、近江八幡市大中の湖干拓地に入植し、二十年大型機械農業と肉牛経営に携わった。それ以前故郷でも二十年余農業に従事し、計約四十年間農に生きてきた。収められた詩には「農に生きる」者だけが感得する、自然への深い畏敬と、それゆえの未来への危惧と反戦の思いが満ちる。次の詩は、恐らくTPPが奪ってしまうだろう瑞穂の生命のかけがえのなさを、鮮やかに訴えてくる。

「分けっ期の水田に/陽が かげりだすと/稲の葉先へ/小さい露が いっせいにころがりのぼり/先端から こぼれる//幼穂を はらみだすと/葉っぱは垂直に立つ/下葉にも ひかりを受けさせる//ときを見計らって堆肥をやる/粒子が決まるのだ/堅い茎から穂の出る いたみ/水を たっぷり入れてやる//淡い花穂がわれ いとけない芯に/無数の結実が はじまる/花穂は ひかりを閉じこめて/ひと粒の米を宿すのだ//穂は徐々に登熟し 頭を垂れていく」(「稲」全文)

 佐古祐二『丈高いカンナの花よ』(竹林館)は、社会の澱みの中で消滅しかけた希望が、じつは「砂塵となって広大な宇宙にひろがってさえいる」と悟り、希望の輝く一瞬を求めて綴られた。作者は五感によってその瞬間を捉えようとするが、希望はとりわけ聞こえない音楽として、詩的聴覚へふいに訪れるのだ。

「音が出る一歩手前の沈黙のなかに/音を出す一歩手前の息遣いのなかに//音楽がある//声もなく/溢れるなみだに//音楽がある//塗りつぶされた黒い画面のなかを/くちびるから/空間に/か/す/か/に/流れ出す/白い粒子のような/かなしく色っぽい/最弱音(ピアニツシモ)の音に//音楽がある」(「音楽」部分、「か/す/か/に」は字下げと活字の縮小がある)

 山田兼士『月光の背中』(洪水企画)の作者は古市古墳群の町、羽曳野市に住む。古えに思いを馳せる「折り詩」や俳句による回文、関西にゆかりの深い詩人たちへの追悼詩などが収められる。表題作「月光の背中」は薬師寺金堂の月光菩薩を題材に、「月光仮面のうた」を折り込む。次の部分は行頭の文字をつなげると、「愛と正義のためならば」という歌詞の一節になる。

「あの金堂の月光菩薩は/いつも凛々しい立ち姿/ときどき拝観しに行くが/せなかを見ることはなかった/いつも光背に覆われている/ぎんの月を思わせる/のうめんのようなお顔は/ためいきの出るほど美しいが/めっとに間近で見られない/なら国立博物館「白鳳展」に/らいげつまで出開帳/ばしょは知っている」(冒頭部分)

『現代詩手帖』11月号に「現在の空虚に放電する荒々しい鉱脈」を書いています

現代詩手帖』11月号に「現在の空虚に放電する荒々しい鉱脈」を書いています。『燃えるキリン 黒田喜夫詩文撰』(共和国)のやや長めの書評として綴ったものです。

今号の特集は『黒田喜夫と東北』です。生誕90年を迎えたこの詩人を振り返り、評者それぞれの身体が反応しまだ生々しく詩人がそこに生きているかのように、時に感情をさらしつつ語っているのが、面白い。この詩人は、死してなお時代というより個の身体を撃つ力があるんですね。

今号は東北というテーマでしたが、さらに「黒田喜夫と〇〇」はいくらでも浮んできそうです。あるいは、今後共和国から全集も出るのに合わせて、詩人の用語集もあったらいいのかも知れません。この詩人の一見異貌な難解さも、現実を一人の身体をかけて潜り抜けたからこそ難解なのであって、じつは非常に一貫した言葉使いをしているのですから。

また共和国社主の下平尾直さんが編集したアンソロジー「毒虫誕生まで」は、うならされました。冒頭の「最上川に捧ぐ 若き労働者のうたえる」は、正統派すぎるような詩でもありますが、初期の詩人にとってまずは書くべき、歴史へ参与する詩だったのでしょう。ストレートな言葉の力で、最上川という存在がその辺りの底なる民にとって、とれほど大きな存在だったを読むものに突きつけてきます。ちなみにかつては北前船最上川から運ばれた紅花が、私の住む京都の舞妓さんの唇を彩ったと聞いたことがあります。

また今号では、水島英己さんが昨年12月に出た私の詩論集『パルレシア』の書評を書いて下さっています。拙著の動線を丁寧に辿りながら深くから浮き上がらせてくださり、また「パルレシア」ということばに何とか導かれたこの著の、さらにその先を指し示して頂きました。

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11月11日-12日、京都で開催される「疑問形の希望」プロジェクト第一回にぜひご参加下さい。

来たる11月11日-12日の2日間、

アートイベント「疑問形の希望」の第一回が、京都で開催されます。

これは韓国のキュレーター文裕眞さんが企画した、画期的な日韓交流アートプロジェクトです。

このプロジェクトの基軸となるのは、なんと「詩」です。

「疑問形の希望」というテーマは、2014年に出た作家徐京植さんの著書『詩の力』(高文研)から引き出されたもの。

この「疑問形の希望」というテーマを軸に、韓国と日本の若いアーティストたちが『詩の力』を読み、本に収録されている詩や文章または文献を、各自の方式で再解釈し、制作として解くという、大変刺激的なプロジェクトです。

今回の京都でのキックオフイベントを皮切りにし、2018年までソウルと京都を行き来し、展示、パフォーマンス、出版などの形で持続させることを、現在計画しています。2018年までの3年間にわたり、プロジェクトの形と方向性を維持させウェブサイトも継続的にアップデートされていきます。

光栄にも私もゲストとして、両日参加することになりました。12日は、パク・ジョンホンさんの白磁の石を磨く、観客参加型のパフォーマンスの中で、PolarMさん(今月10月の京都αステーションのスプラッシュブレイクとして新作「DANCE」が繰り返し流れています)の即興音楽と共に尹東柱「序詩」と斉藤貢「汝は、塵なれぱ」を朗読します。11日も、詩の力について今自分が考えていることを、語りたいと思っています。

詳しくは、公式HP をご覧下さい。

(サイト内で参加申し込みが出来るようになっています。)

画期的なプロジェクトに、多くの方々が参加されることを願っています。

『びーぐる』33号に 「『世界』の感触と動因ー解体を解体する『武器』をつかむために黒田喜夫を読む」 を書いています。

『びーぐる』33号(特集:黒田喜夫の世界性を問いなおす)に、

「『世界』の感触と動因ー解体を解体する『武器』をつかむために黒田喜夫を読む」

を書いています。

今年は詩人の生誕90年。

遺された言葉は、どれも詩=革命の瞬間を求めて今も生き、

声のまなざしをこちらへ伸ばしてくるのです。

あくまで一人の表現者という内部、そして民衆の底から、

政治に向き合い続けたその日本語の生命力は、

今非政治的=非詩的に書かれる全ての言葉を

打ちすえやまないのではないでしょうか。

「今全世界において村落共同体、一人の民衆(プロレタリアート)、身体性、背理と両義性がことごとく解体されようとしている。残念ながら「世界性」がそのような内実を持たざるをえない時代だとしても、半世紀も前に黒田がそれらを思考し続けたのが、それらが失われゆく哀しみではなく、すでに「欠除」している痛覚においてだったことを想い起こせば、どうだろう? 「欠除」と「根源」がスパークする痛覚の閃光に共振し、ふたたびこの詩人を読むならば、私たちは世界の解体に裂け目を作り、解体を解体する「武器」をたしかに手にするに違いない。」(末尾部分)

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9月19日付京都新聞・詩歌の本棚/新刊評

今年は茨木のり子の没後十年に当たる。文芸誌の特集号も出たが、『自分の感受性くらい』『倚りかからず』などは今も広く読まれ、愛読者は絶えない。何にも凭れず時代に率直に向き合った、詩人の凜とした姿勢が、今を生きる人の心を打つのだろう。第一詩集『対話』の巻頭詩は「魂」。終生内奥の声に耳を澄ませながら書いた詩人の生を象徴するかのようだ。茨木は同詩で自身を、王妃のように内奥に君臨する魂の「みじめな奴隷」だと述べる。その後も一貫して主体でも私性でもない「魂」を重心として書き続けた。この国の精神風土において、たしかに希有な詩人である。

 北原千代『真珠川 Barroco』(思潮社)は、「川」というモチーフを集中に張りめぐらせる。魂の起伏を丁寧に柔らかに辿る言葉は、煌めく水のようでもある。繊細かつ大胆な思考とイメージの展開を可能にしたのは、作者の豊かな日本語の力だ。古語、現代語、外来語を巧みに選択し、漢字とひらがなの開閉も美しい。「真珠川」は造語、「Barroco」はポルトガル語で「歪んだ真珠」を指す。作者の澄明な言葉は、生死の境界で歪む人の魂のかたちを、愛おしくなぞるのだ。

「川べりに/毀された真珠が息をひそめ/かすかなところにすまいしているものらが/水を曲げている/名まえを呼ぶと/おどろいたように水はふりむく」

「川べりに点々と散らされた歪な真珠は/ここにいたひとらが置いていった/地図に名まえのない小川のうねりに沿って/しろじろとかがやく//どこまで遠くゆけば/このふるえる双曲線を 美しいとおもえるだろう//水音の底ふかく/砕かれた天窓が映っている/やわらかくなれ わたしのあしくびよ」(「Barroco」)

 服部誕『おおきな一枚の布』(書肆山田)は、四年前会社を退職した作者が、通勤電車での記憶をモチーフとして、魂を「現場」に浮遊させつつ、光景を詩的幻想として蘇らせる。それらが虚構を超え、鮮やかな実在感をもたらすのは、長い間詩から離れながらも、(むしろ離れたからこそ)作者が密かに培ってきた言葉と思考の力があるからだ。社会的事件として、日航ジャンボ墜落事件と阪神淡路大震災も扱われる。前者の詩「六歳としをとった」は、六年後再びやって来た「八月十二日月曜日」、一人の男の魂がついに大阪に戻ってきたという設定だ。

「やわらかなビジネススーツを着て/剣のように細いネクタイを締め/黒い影のアタッシェケースを持った光は/今日一日の仕事の疲れのせいで/ジャンボジェット機が滑走路を離れるまでに/すでに座席の中で眠りに落ちていた/日本列島のかたちをかたどってひろがる/光の明滅を見ることはなかった」

「離陸から五十分後/阪神高速池田線のオレンジの路面灯に沿って/なにごともなく伊丹空港に着陸したジャンボ機の座席で/永い眠りから目覚めた光は/いつもの出張帰りのように/六歳だけ年をとった/妻の待つ家へと家路を急いだ」

 後藤和彦『明日の手紙』(土曜美術社出版販売)は、宮沢賢治の「心象スケッチ」を想わせる、魂のプリズムから現れた光のような、言葉の柔らかさが印象的だ。

「月の晩には涙が降ると/つばめたちのはねをしめらすという/そんな夜には一人決まって/壊れるよりも感じることが大好きだから/青いあげはでさえも星空に透く/その銀の糸を辿っていっても/自分の輪郭ではないことを知るだけなのに/だけどひとはつぶやくしかない/こごえる喉はまたひとをぬらす」(「群青」全文)