もう一ヶ月前のことになってしまいましたが、
8月5日から7日まで広島に行きました。
この一ヶ月の間に広島は大規模土砂災害に遭い、
多くの人命が奪われました。今も行方不明の方がいます。
避難所暮らしを強いられている人々も大勢います。
どれほどの無念と悲しみがそこにあるのでしょうか。
テレビで家々を押しつぶした土砂を見るたびに、
その重量を想像し、胸が塞がれる気持になります。
犠牲者にとってその時天が裂かれたのではないでしょうか。
天が裂かれる、というイメージは原爆投下と同じです。
それから何秒後のことかはつきりしないが、突然、私の頭上に一撃が加へられ、眼の前に暗闇がすべり墜ちた。私は思はずうわあと喚き、頭に手をやつて立上つた。嵐のやうなものの墜落する音のほかは真暗でなにもわからない。手探りで扉を開けると、縁側があつた。その時まで、私はうわあといふ自分の声を、ざあーといふもの音の中にはつきり耳にきき、眼が見えないので悶えてゐた。しかし、縁側に出ると、間もなく薄らあかりの中に破壊された家屋が浮び出し、気持もはつきりして来た。(原民喜『夏の花』)
今回、広島を訪れたのは、『環』での連載「詩獣たち」の最終回として
原民喜をとりあげるためです。
(ちなみにこんなにブログが遅れたのは、同論を書いていたというのもあります・・というのも言い訳がましいですが)
この詩人論の連載では、これまで可能なかぎり、詩人たちの詩と生をはぐくんだものを感じとるために、可能なかぎり「故郷」や「ゆかりの地」に足を運んでいます。今回は最終回でしっかり書きたいということもありますが、原発事故がいまだ収束されない不可視の闇が広がるなかで、原爆という「原点」に立ち戻りたいという思いがあり、8月6日の平和記念式典にはどうしても参列したいという気持になりました。
また、広島には一緒にコラボ集を出した、歌人の野樹かずみさんがいるので、お忙しい中、三日間つきあっていただくことになりました。野樹さんとご主人のおかげで、大変効率よく回ることができ、充実した旅になりました。本当にありがたかったです。
5日、広島駅に昼過ぎにつくと、そのまま市電で原爆ドームに向かいました。(じつは原爆ドームを訪れるのは三回目です。しかしこれまでの二回は、何か他人事のように通過してしまった気がします。)
小雨が降るなか、69年目の命日を明日に控えたドームは、読経に包まれていました。その光景は何かとても胸が衝かれるものがありました。大勢の人が集まり、反戦のための寄せ書きや原発反対と書かれた横断幕もありました。
原爆資料館に入りました。入館料は50円という、それ自体がアピールとなっている安さです。
内部は指定以外は撮影可でした。
8時15分で止まっている腕時計です。
原爆投下直後の広島の光景の再現模型です。
原民喜の『夏の花』の描写はシュールレアリズムがかっても思えましたが、それは、原がただ「地獄を超えた地獄」の記憶に、みずからの手持ちの言葉を必死ですりあわせた結果であるのだと分かりました。
ちなみに『夏の花』は、被爆直後から目の前の光景を書き留めた『ノート』をもとにしています。
『夏の花』では突然、描写がカタカナの「詩」になるところがあります。それは最も被害のひどかった場所を記述する場面です。模型は、この箇所が語る非現実の光景を想起するための土台になると思いました。
ギラギラノ破片ヤ
灰白色ノ燃エガラガ
ヒロビロトシタ パノラマノヤウニ
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキメウナリズム
パツト剥ギトツテシマツタ アトノセカイ
テンプクシタ電車ノワキノ
馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ
ブスブストケムル電線ノニホヒ
被爆直後の人々の様子を再現した人形です。
写真で見るよりも実際はもっと鬼気迫るものがあります。
角度によって、生々しさが変わり、死者の魂がたしかに宿っている、あるいはその苦しみを、象徴的にたしかに表現していると感じさせました。
しかしこの人形を広島市が撤去しようとしているそうです。
なぜなのでしょうか。
たしかにこの時も同じく見ていた周囲の人々の中には、「怖い、見られない」と友達の背中に隠れる女子中学生もいました。
そうした「怖い」「子供に見せるには不適切である」というような意見が反映されて撤去の方向となっているのでしょうか。
もしそうならば理解しがたい話です。
観客に原爆の悲惨さを伝えるのがこの記念館の役割であるはずなのに、
その悲惨さは恐怖をもって受け取られて当然、あるいはむしろそうあるべきなのに。
それとも何か他に理由があるのでしょうか。
「人影の石」です。
この階段は、原民喜のエッセイによれば敗戦後もずっとそのまま階段として使われていたそうです。「原爆ドーム」も戦後取り壊しを望む声があったとききます。
つらい記憶は忘れてしまいたいものですが、しかしとりわけ原爆被害は果てしなく、このように普遍化して全人類の共有する記憶となしえたことは、本当によかったと思います。無数の死者と後に生まれる世代が救われました。
以下、被爆の資料(遺品)です。
12才で亡くなった佐々木禎子さんが折った折鶴です。
大体一時間半くらいの資料館滞在だったでしょうか。
その後、野樹さんと合流しました。しばらくドームの周辺を歩きました。
原民喜の詩碑です。
「「遠き日の石に刻み 砂に影おち 崩れ堕つ 天地のまなか 一輪の花の幻」
この絶筆の詩についてだけでも、語ることは山ほどあるかもしれません。
野樹さんは記憶の中ではこの詩は中空に書かれていた気がすると言っていましたが、
それはまさに原民喜の詩の世界を言い当てている感触だと思います。
その後、広島大学時代の思い出の場所などを案内してもらいました。
お食事は「ドバイ」というお店でお好み焼きをいただきました。とても美味しかったです。
この日の最後は、「ブラジルに生きるヒバクシャ」という映画を、
サロンシネマという映画館で見ました。
古い映画館でしたが、映画好きならたまらないと思われる、素敵な空間でした。
近々取り壊しになるということでしたが、
こんな美しい天井は保存ものではないでしょうか。
映画も広島の原爆被害者とブラジルの核汚染の被害者が、共に立ちあがっていく姿を描いたもので、まさにこの夜に見るべき内容だったと思います。