8月6日、いよいよ平和式典の当日です。
式典自体は8時からですが、7時頃までに平和記念公園に行ったほうがいいようなので、5時に起床しました。
しかし起きてみると外は大雨。
5時少し過ぎて大雨警戒警報が発令されました。
それでも式典が中止になったという情報は見当たらなかったので、
思い切って参加することにしました。
雨を押して会場まで車で連れていって下さった野樹さんの旦那様には大いに感謝です。
式典会場近くで降ろしてもらいました。
すでに大勢の喪服姿の人々が歩いていたので、
その背中を追っていきました。
式典会場はすでにごった返していました。
雨上がりで足場は悪かったですが、
開会前に、参列者一人一人の思いが熱気をかもしているように感じました。
今年は43年ぶりという雨中の記念式典だったそうです。
荘重な音楽や美しい合唱もありましたが、以下、簡単にスピーチについてのみ。
広島市議会議長による式辞では、「集団的・個別的自衛権など、わが国の『平和のあり方』をめぐって、議論がなされています」という言及はありました。
しかし広島市長による「平和宣言」には集団的自衛権についての言及がなかったのが大変残念です。「各国政府と共に新たな安全保障体制の構築」という言葉は存在していましたが。
安倍政権に対し自発的に配慮した広島市長。
それに比して三日後、
日本政府に被爆者の集団的自衛権への不安と懸念の声に、「真摯に向き合い、耳を傾けること」を強く求めた長崎市長は、りっぱでしたね。
小さいですが安倍首相です。
やっつけ仕事と言われても仕方のない、機械的なスピーチに終わっていました。
哀悼の意を早口でのべるといことそれ自体が、どれだけ人を不快にさせるか、分からないのだろうかと苛立ちながら聞いていました。
あとで聞いたら、ほとんどが昨年のコピペだったとか。
被爆国日本の首相として大変悲しいですね。
心なしか参列者の拍手にも熱がありませんでした。
終了後、野樹さんとの待ち合わせまでまだ時間があったので、
周辺を散策しました。
色々目にしたものです。
平和の鐘に刻まれてあった言葉は「自己を知れ」。
原爆の子の像のそばで、禎子さんの物語を紙芝居で高校生が語っていました。
また近くの別の場所で子供たちが平和への宣誓を行っていました。迫力ありました。
この日の原爆ドームは、長い眠りから覚めているように思えました。
花を透かせてドームを眺めることができました。
二つの橋が「T」字型に組み合わされています。
そのユニークなかたちから、原爆投下の目標にされました。
被爆後この橋の付近や川には死体が無数に散乱し、
地獄のような光景だったといいます。
被爆二世の方々の集会も行われていました。
野樹さんと市立図書館で合流し、
原民喜の生家跡へ向かいました。
恐らくここだろうという中区幟町付近です。
原家は当時、陸海軍御用達の繊維を扱う商店を営んでいました。
「民喜」という名は、1905年に生まれたために、日露戦争勝利を祝って付けられたそうです(=民が喜ぶ)
生家跡近くの京橋川に面していた次兄の家跡にある、被爆柳です。
川べりにありましたが、不思議に輝いているように見えました。
ゆたかな生命力を感じました。
それから市電に乗って、円光寺というお寺に行きました。
民喜と妻貞恵が眠る、原家の墓所です。
「夏の花」は妻の初盆に花を手向ける場面で始まります。
その場面から私が想像していた墓と、ほぼ違わぬ佇まいでした。
「夏の花」に出てくる、被爆死した甥の文彦さんの名前も刻まれていました。
墓石にはあの原爆ドーム近くの詩碑に刻まれていたのと同じ絶筆の詩
「遠き日の石に刻み/砂影おち/崩れ墜つ/天地のまなか/一輪の花の幻」
も刻まれていました。
この墓地の他の墓石にも、多くの「昭和二十年八月六日」が刻まれているのが目につき、胸がつかれました。
八月六日以後、遠くない日付も多かったのでした。
夕方から夜にかけて、
土手に座ってとうろう流しを眺めました。
じつは朝、私もとうろうを一つ申し込み、メッセージも係の人に渡したのですが、
これほど多くのとうろうでは、どこにあるのか分かるはずもありません。
一つ一つが、一人一人の平和への思いを浮かべて流れていきます。
遠目にはとうろうは不思議なイキモノのようにも思えます。
死者を慰めるために、生者が灯した美しいともしび。たましい。
あるいは涙。そして祈りそのもの。