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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸『青い花』(角川書店)

大変な酷暑が続いたお盆。
辺見庸さんの最新作『青い花』(角川書店
を読みつつ過ごしました。
「すばる」2月号に掲載された同名小説Photo
を大幅に加筆したもの。
前作も読んでいましたが、
単行本化された今回の作品世界は、
さらに魅惑ある広がりと深さがあるように思えました。
(もちろん大分時が経ったので「飢餓感」も手伝っているかも。)

ずっと読もう読もうと思いつつ、
集中できそうになかったのでここまで持ち越したのですが、
奇しくも「終戦記念日」の前後に
この小説の世界と往還しながら
現実の動きを見聞していくことができたのは
僥倖だったように思います。

ストーリーというのは殆どないと言ってもいいでしょう。
内面風景か現実の風景か分からない世界で
男が線路上をあるいている。
いまだあいつぐ地震原発事故と戦争のさなか、
妻子を失い、
登録難民の群れから離脱して、
たった一人であるいている。
風景には意味も感情もなく
ものごとに区別も境界もなく、
それだけに「イカれた神の夜の気配」のみちた、
まがまがしさとおごそかさの入り交じった世界を、
「ポラノン」という多幸症を引き起こす「除倦清澄化補助食品」を求めて。
「歩行」と共に、記憶の原風景と原意識が
次々とおのずと想起されつつ。
記憶は「もつれ、つづれ、ずれ、ほつれ」る言葉の独白となり
イメージの中から音やリズムとなって溶けだしていき
ゆたかに、孤独に、無償に、世界ならぬ世界へ拡がっていく―

ひとことでいえば
今こんなに面白い「小説」はどこにもないと思えます。
今この日本で、これほどこの国と世界の狂気を狂気として
「言えている」作品はない。
言われなければならなかったことを、
あるいはそのように言われうることを想起してみることさえ
自分に禁じていたことを。
この世はまともであるどころか狂っている、
そして狂っているどころか、狂っているふりをしている、
つまり
まったくの「インチキである」という実相を、
放射性の光を放つように
この世を超えた青い花のふるえと共に
語ってくれている。

安易に言い方をすればつまりこの「小説」には
私たちの隠された喉の深みからあらぬ言葉を誘うような
「カタルシス」があるのです。
この国が押し隠している暗い暗い口腔をおしひらかせ
特攻隊の嘘について、天皇制の嘘について、戦後社会の嘘について、                深い悲しみに沈みながらも、
それゆえ底から解放されるような笑いをもたらしながら。
じっさい、私は、150頁から155頁にある
現在の政治と文化における主要人物に対する風刺に
胸がすくを通り越し、笑いをおさえられませんでした。
他の部分でも、
意味不明の台詞や言葉遊びに不思議な解放感を与えられていきました。
世界には本質がなくもはや現象だけであるのに、
本質がまだあるかのようにふるまう狂気のおかしさ。
それを指摘することは王様は裸だという危険がありますが、
だからこそ恐怖と背中合わせで笑いがこみ上げてきます。

そしてこのような独白はまさに
一昨年出た『水の透視画法』所収のエッセイ「おいしい水」にある
「パルレシア」でしょう。
それは、何についてでも率直に真実を語ること、
脅迫をも、迫害をも、殺されることをも恐れず、自由に語ること、を意味します。
そして「パルレシア」は
この小説ではさらに「最期の尊厳」と言われています。
まさにそうだ、と私は深く勇気づけられました。

「なりたい色の花に咲くことができるのは神様だけだ。そのようなことも叔父は口走った。『人間に尊厳なんかありはしないよ』。自分に説くようにそう言ったこともある。ひとはしきりに『尊厳』を口にしながら尊厳をみずからつぎからつぎへと壊す生き物なんだ。『それでもだ、もしも人間に最期の最期でのこされた尊厳というものがすこしでもあるのだとしたら…』。かれはふっと息をすってわたしの目を見た。なんだとおもう? そう問うていた。わたしは首を横にふった。脳裡に闇夜の水切りを見ていた。黒い礫。黒い飛沫(しぶき)。叔父は語を継いだ。『げんに目の前に見えていることをインチキだ、うそだと言えることだよ。そう言えるかどうかだよ』。

一方、今私たちを浸す
「ハイパーインダストリアルな闇汁ファシズム」は
「パルレシア」という最期の尊厳さえも内側から奪おうとします。

「闇汁ファシズムにはなんでもある。反原発、反公害、反女性差別、口先の反ファシズムだって闇汁ファシズムの立派な一員だ。闇汁ファシズムはだからいつまでも死なない。闇汁ファシズムは永久不滅である。いやさかいやさか花は咲く。闇汁ファシズムにあっては、たとえ一分一秒たりとも、ひとを腐らせない時間はない。どこまでもどこまでも、いつまでもいつまでも、腐敗があまりにも万遍ないものだから、まるで腐ってなどいないかのように、腐らせていく。闇汁ファシズムはうたぐることをけっして禁じはしない。ただ、懐疑しつづけることが結局はひとを疲れさせるだけなのだ、とていねいにていねいに、くりかえしくりかえし、とくとわかるまでおしえてくれる。目のまえのものを『偽りだ!』とさけぶ、ひとにのこされた最期の尊厳を手もなく骨抜きにしてしまう。」

小説は
青い花がにじみ
いわば「ニルヴァーナ」のような様相で終わるのですが、
冒頭から結末まで、言葉たちは率直に自由に生きて飛び交い続ける。
青い花はある、青い狂気はある、ひとは榾人である、世界は夜である・・・と、
言葉はいのちの塩となって、煌めいていきます。

「巨きい言葉はだめだ。巨きい言葉は巨きい洞(うろ)だ。おしゃべりはだめだ。もう気のきいたことなど言おうとすまい。言葉はもうだめだ。言葉はもうつうじない。とどかない。みんなつうじているふりをしているだけなのだ。言葉にしようとして、ついに言葉にならないものにしか、いまかたられるべき真実はない。」

「ああ、パルレシア! そのほんとうの意味と在りか、そのほんとうの無意味と非在をおもってみる。パルレシア! 世界の最後の塩をなめるように、すこしずつすこしずつ読みなおそう。」

そう、パルレシア!
ついに言葉にならないものを、青い花のにじみを、
この小説は激しく、繊細に、絶妙に追ってくれているのです。
その水脈を、冒頭から何度も辿り直していきたいと思います。