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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

12月7日付京都新聞掲載「詩歌の本棚/新刊評」

詩の比喩表現には、大きく分けて隠喩と直喩と寓意がある。寓意とは、現実への風刺や批判をこめて、擬人法などを用いた比喩。隠喩と直喩はテクストを学ぶだけでも体得されるが、寓意は現実を見つめなければ掴まれない。詩に現代性をもたらす大切な技法だ。

 中西弘貴『厨房に棲む異人たち』(編集工房ノア)は、魅惑的な寓意に満ちている。厨房の様々な道具たちが、物の怪の不穏さと叡智を帯びながら、みずからの思いを独白する。飲食(おんじき)という人の根源的な営みの次元で道具と向き合った作者の詩的想像力の中で、人に寄り添う道具たちは、人の欲望と孤独のけなげな寓意となり、いきづき出した。

「身震いの毎日です/身を震わせると/わたしの身体を通して/落ちていくもの/残るもの/勝手に選別されて/もとよりわたしに/選り分けの意志はないから/落ちていったもの 残ったもの/それぞれの行く末は/知らない/だれが定めたのか/身を震わせるしか/生業は無いのだから/身震いを続けるほかありません」(「篩」全文)

 平田俊子『戯れ言の自由』(思潮社)は、駄洒落やイメージの連想といった「戯れ言」を駆使しながら、現実のさりげない場面にひそむ重い真実を炙り出す。「戯れ言」はまた新鮮な寓意を呼び寄せている。ふと眼に止まった路上のイチョウの葉は、「鴨脚」という中国語を介し無数の飛び込み自殺の寓意となり、悲しくも美しい詩を結晶させた。

「中国語で「イチョウ」は「鴨脚」/確かにイチョウの葉は鴨の脚に似ている/鴨の脚が散らばる道路/人の脚が散らばる線路/口から口へ伝わるニュース/「銀座線、いま、とまってる」/不通の原因として報じられる死/一一〇万カンデラで照らしたら/丸の内口は見えるだろうか/人は電車に飛びこむのをやめるだろうか」「八重洲国から丸の内国へいったのではない/八重洲口から丸の内口に向かう/わずかな時間に/鴨の脚は散り/人の脚はさらに散り/東京は/東京の駅は/東京の線路は/きょうも人を散り散りにする」(「東/京/駅」)

 有馬敲『寿命』(竹林館)は、一九三一年京都に生まれ、今もこの地で詩を書き続けるオーラル派の詩人の詩集。替え歌や京都弁も取り入れ、老いの感慨を軽妙に表現する。自分を妻の飼い犬に見立てた寓意詩では、男性の老後の孤独というテーマが、京言葉と擬音語に救われている。

「留守番を頼まれたこっちは/近くのコンビニで弁当を買うてきて/犬の餌みたいに食うとらんならん/健康によい金属製の首輪ぶら下げて/放し飼いされとるけど/見えない鎖につながれとる//ううう うううう わあん わあん/わあん わあん わあん わあん/ううううう ううう わあん」(「負け犬」)

 橋爪さち子『薔薇星雲』(コールサック社)では、病からの回復の途上にある作者の鋭敏な感受性が、生活や自然の中に捉えた様々な寓意が煌めく。宇宙のガスが美しく輝く「薔薇星雲」は、時代の闇の中にいきづき続ける、はかなくも愛おしい生命の寓意である。

「動きのとれない病室の身でさえ/わたしの内臓は/オーケストラを成すそれぞれの独立と自由の/美しい曲線に充ちた楽器のように/日々おのおのの音色を/喜悦いっぱいに響かせようとする」「家に置いてきた星座図鑑の/120頁を開けようとして/届くはずのない腕を伸ばす//NGC2237/3600光年のかなた/一角獣座 薔薇星雲の/闇に萌える暗赤色の/さみしい冷たさに触りたくて」(「薔薇星雲」)