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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

2019年11月25日付しんぶん赤旗「詩壇」

 大西昭彦『狂った庭』(澪標)は、世界の片隅で生きる弱者たちの気配を、的確な描写と巧みな比喩で、読む者の感覚の深みに伝える珠玉の一集だ。

  作者は映像プロデューサーでもある。ユーゴ内戦や阪神・淡路大震災を取材した。本詩集には作者が出会った同時代を生きる、あるいは生きられなかった者たちの気配が立ち込める。

 内戦のユーゴの村で、旅人である自分を家に招き入れた男が、目の前で撃たれ亡くなった。

「ぼくはわけもわからず地べたにひれふし、/ゆらゆら揺れる緑のなかに転げこんだ。/炎のように熱かった。/からだがガシガシに乾いた雑巾のように強張っていた。/揺れる緑のむこうに、白目をむいた男の顔があった。/どろんとした重そうな血が地面に広がっていくのが見えた。」(「ゆらめく緑」)

 「血の重さ」は今世界を覆う。戦争、グローバリズム、気候変動―全ては止まない雨に打たれ自滅するかのようだ。

「錆びて鉄屑のようになったルノーが/通りの片隅で雨に打たれている  色を失い/まるで白亜紀の終わりの凍える恐竜のようだ」(「薄紅色の花」)、「爛々と輝く目に空虚をにじませ/ストリートチルドレンの少女がいった/ただ死ぬのを待って生きているだけ」(「春と死」)。

   一見平和な日本の「オイルペイントされた夏空」(「真夏の痩せた鳥たち」)も同じ重さだ。だがそれと知らず乗り越えていくものがある。出稼ぎのフィリピーナたちの「生きていくことに/ためらいのない鳥たちの歌」(同)、「すべてが白く消失した路地」に死者の魂のように巣食う「無花果の影」(「昏(くら)い水」)、病んだ自分に肩を貸す刺青の男―。

 世界という「狂った庭」。この詩集にみちるのは、そこになお雨音と沈黙を聞き届けようとする静かな意志だ。

2019年11月16日ビジュアルポエトリーパリ展オープニングにて

一昨日に行われたヴィジュアルポエトリーパリ展のオープニングで朗読しました。作品は4点出しています。

 

朗読はベルリンのフランツ奈緒子さんにフランス語訳を、私の日本語に一部重ねるように読んでいただきました。

 

フランツさんとは、2012年大飯原発再稼働をきっかけにツイッターで始まり、いつしか私が取りまとめ役になった「連歌デモ」にベルリンから投稿していただいたことがきっかけで知り合い、今度でお会いするのは二度目。今回快く引き受けてくれ、お忙しい中ベルリンから来てくれました。前日から詩の内容あれこれ一緒に考えたり、読み合わせを繰り返す中で、互いの言葉や詩や世界への思いを確認し深めることが出来、大変充実した時間を過ごしました。

 

作品はまあ何とかできたという程のもので、「ビジュアル詩」というより「箱庭詩」とでもいうべきもの。パステルカラーの色もパリの弱い光では意外と映えず、まだまだ課題がありますがー。

 

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2019年11月4日付京都新聞「詩歌の本棚/新刊評」

 今現代詩の存在意義が見えにくい。書店の詩の棚はもはや短詩型が主流だ。社会の急激な変化に人々が抱く危機感に対し、このジャンルは応答が遅れているからだろう。個人の物語に閉ざされた詩も漫然と増えているようだ。だがそもそもは現代性を根拠とするジャンルだ。戦後詩のように際だつことはないとしても、今の現代詩に固有の形で時代に共振する方途はかならずあると思う。
 鎌田東二『狂天慟地』(土曜美術社出版販売)は昨年から刊行の続く「神話三部作」の掉尾を飾る。「詩を書き始めて五十年、半世紀が経って、自分なりのけじめというか区切りをつけたかった」。そのような本詩集には、宗教哲学者でもある作者の詩の原点をテーマとする作品もあり興味深い。神秘体験に近い記憶を足場として、人災でもある現在の天変地異がもたらす世界の混沌に向き合い、作者は鮮やかな「最終の言葉」を放つ。
 とりわけ台風19号が襲来した直後に読んだ連作「みなさん天気は死にました」は、甚大な被害の光景とおのずと重なり、胸に突き刺さって来た。表題は、五十年前作者が投稿欄で出会った高校生の詩の題名だという。「田村君」のその言葉が作者の中で「鳴り響きつづけ」、「初動を衝き出し」、本詩集に「結実した」のだ。「天気の死の行方を追いつづけた五十年」の間、「田村君」の一行は、作者の詩作を支え導いて来たことになる。
「みなさん天気は死にました/こころの準備はいいですか?/からだの準備もできてます?/たましいの準備はいかがです?//みなさん天気は死にました/死んだとはいえ天気はあります/狂天慟地の天気ではありますが/前人未到把握不能のお天気ですが」
「みなさん天気は死にました/秦の始皇帝ばかりではありません/あらゆる時代のあらゆる為政者は/天気のこころを気にはしながら天気を憎みました/思い通りにならないもの すごろくの賽 賀茂川の水 僧兵/いや一番思い通りにならないものは 天気のこころでございます」
 君野隆久『声の海図』(思潮社)は、五十代での第三詩集。「十代で詩に惹かれ」、三十代四十代に各一冊出した。「あとがき」で作者は、自身の「蝸牛の歩み」を「自分と詩とのかかわりの固有な時間配分だった」と捉える。時代の急激な変化に惑わされず、詩と関わる自分の時間を見つめて書くことは大切だ。言葉が時代の散文性に奪われず、結晶化するまで待つための「遅れ」ならば、詩にとって必要不可欠なのだ。詩「塩田」は、繊細な筆致で作者の詩作自体をモチーフとしているようにも読める。
「速度を上げる車両の傾きを感じながら/麗かな湾を眺めていると/前方に/きらきらと白い光を発する場所が見える/(さながら指輪の宝石の位置)/湾曲の向こうから痛みの光の錐を/眼に揉みこんでくる/あれが塩田のある町か/そこは昔ながらの方法で砂田に何度も海水を撒き/天日で塩の結晶を析出させる/古代からの製塩法を守っているのだという/いかにも遠くからでもわかる結晶質の反照に領された町」
 渡部兼直『あなたのいのちの日時計の上』 (編集工房ノア)は翻訳詩と自作を収める。自作詩に「天気が死んだ」世界の一隅の姿が、垣間見えている。
「豪雨にみまはれ/橋桁をいだき/泣いてゐる/幽霊は/ひそむ場所どこも無くなり/もつとも困つてゐる/暗い夜空の/寒い烈風に/吹きさらされ/すすり泣いてゐる」(「冬来たる)

2019年10月25日付しんぶん赤旗文化面「詩壇」

 長田典子『ニューヨーク・ディグ・ダグ』(思潮社)は、2011年から2年間米国に留学をした体験の結実だ。異文化との葛藤、日米双方への違和感といったテーマと共に、作者は自分自身の苦悩と向き合っていく。幼年期のDVのトラウマ、来し方への自省、愛への疑念―。本詩集は自身と世界の痛みに同時に貫かれた、貴重な感情の記録だ。
 五十代で留学を果たした作者にとって、米国は再生のための場所だった。「ここに来てからは/悪夢を見ることはなくなった/わたしは/満員のフェリーに乗る観光客のひとりとなり/汽水域をなぞって/ゆるゆると/自由の女神を見るために/リバティ島へ/そして/かつて移民局のあった/エリス島へと/移動した/とても平凡で穏やかな行為として」
 だが3.11が地球の裏側から揺さぶりにかかる。「わたしは一時間中喋り続けてしまった/からだの底から突き上げてくる怒りを、恐怖を、/ニホンのメディアとアメリカのメディアの報道の食い違いについて/ニホンの地震についてTSUNAMIについて、/(略)/それから、/ニホンの政府が安全だと原発を推進してきたいきさつについて、/コントロールできない原発事故の危険性について、」作者は何度も叫ぶ。「リアリティ、ってなんなんだ!」
 3.11に突き動かされ9.11の現場に立ち、作者は幻想の中で死者となりその無念を知る。あるいは銃社会の恐怖が呼び覚ますDVの記憶から、やがて父への愛を見出していく。母国で見失った愛や希望が、異国で新たな命を得ていく過程が赤裸々に語られ、胸を打つ。
 自分自身と世界に向き合って生まれる感情は、詩を深く豊かにする。本詩集はそのことを率直に教えてくれる。

9月23日付しんぶん赤旗「詩壇」

『薔薇色のアパリシオン  富士原清一詩文集成』(京谷裕彰編、共和国)は、戦前日本のシュルレアリスム運動の中心にいて、知的で幻想的なすぐれた作品で注目されながら、一冊の詩集も出さず1944年、36歳の若さで戦死した詩人の全体像を明かす貴重な一書だ。
 シュルレアリスム第一次大戦後フランスで始まった芸術運動。戦争に帰結した近代への疑いから、夢や無意識の豊かさに新たな創造の可能性を見出した。日本のシュルレアリスムはフランスと比べ非政治的で美学的とされる。だが軍国主義へ向かう時代の闇の中で知性(エスプリ)の光を掲げ、自由な世界を創造する意志を突きつけた。それゆえやがてマルキシズムと同様国家の弾圧対象となる。
アパリシオン」とは仏語で「出現」。富士原の詩はどの細部も詩への純粋な意志が煌めき、未知の世界が現出する。狭い意識に囚われた「私」を解き放ち、自己妄想に駆られる国家からは遥か対極に立つ。その「自由」=「火災」がつかのま照らし出す時空は、余りにも美しい。
「‪正午‬  羽毛のトンネルのなかで盲目の小鳥達は衝突する   彼等は翼のない絶望の小鳥等となつて私の掌のなかに墜落する(略)其処に起る薔薇色のアパリシオン  薔薇色の火災は私の美しい発見である  雛罌粟よ  汝がこの絶望の空井戸の中に生へてゐて私の発狂せる毛髪の麗はしい微笑を聞くのはこのときである(「apparition」)
  戦争末期、徴兵検査で丙種だったにも関わらず召集された詩人は、乗船する船に魚雷攻撃を受け朝鮮木浦沖で絶命した。「薔薇色のアパリシオン」の美しさは、戦間期に奇跡のように詩を生きた詩人の、今の私たちへの痛切な伝言である。

HP「詩と絵の対話」を更新しました。

HP「詩と絵の対話」を更新しました。

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今月のゲストはヤリタミサコさんです。視覚詩の実作者としての体験から大変興味深いエッセイを書いていただきました。これまで日本と世界の視覚詩の歴史と交流などはなかなか知られてこなかったですし、視覚詩の視点から詩の可能性を考える上でも重要な文章だと思います。(ちなみにヤリタさんとは、昨年1月にパリで行われたビジュアルポエトリーパリ展でご一緒し、エッセイ中にもあるように今年も同展が彼地で開かれ、私も作品と朗読で参加します)。

 

なお、今月から「関連論考」というコーナーも設けました。ここでは、私が新聞や雑誌に書いた「詩と絵の対話」のテーマと何らかの関連のある文章をアップしていきます。今回はヤリタさんも言及されている日本を代表する視覚詩人新国誠一の詩集についての論考、またあいちトリエンナーレの中止についての寄稿文も、アップしました。

 

どうぞご高覧下さい。

2019年9月16日付京都新聞「詩歌の本棚/新刊評」

  今の時代と一九三〇年代は似ていると言われる。技術や産業の発展、大衆消費社会、不況と格差の拡大、民主主義の機能不全、排他主義と戦争の足音―。最近シュルレアリスム関係の詩書の出版が相次ぐのも、偶然ではないだろう。一九三〇年代に興隆した日本のシュルレアリスムは、本家フランスと比べ非政治的で美学的だとされる。だがシュルレアリスムもまた危険思想として弾圧された。時代が酷似する今、当時の詩人たちの心情と言葉がリアルに迫る。
『一九三〇年代モダニズム詩集』(季村敏夫編、みずのわ出版)は、戦前神戸でシュルレアリスムの詩を書いた矢向季子、隼橋登美子、冬澤弦のアンソロジー。いずれも詩集も遺さず経歴もよく分からない。季村氏は戦前の詩誌で三人の詩に出会った。とりわけ二人の女性詩人についての論は興味深い。当時女性がシュルレアリスムの詩を書くことが、どのような苦難と解放感をもたらしたのかが分かる。総動員体制下で孤独を貫いた矢向の詩は、「何かに、激しく促されるまま、ことばを刻む。官能の火と花の軌跡、奇跡といっていい行為の結晶」だ。だがある時から沈黙し詩界から姿を消す。一方隼橋は治安維持法違反で獄中にいる夫に差し入れ弁当を作っている最中急死した。「すさまじいものが/自分の本心であった」と赤裸々に記し、モダンな言葉の内に軍国主義への怒りを込めた。
 二人の女性詩人の沈黙あるいは死に暗い影を落とすのは、「神戸詩人事件」(一九四〇年)だ。シュルレアリスムに傾倒した神戸の文学青年が弾圧された事件であり、「京大俳句事件」も同時期に起こった。
『薔薇色のアパリシオン 富士原清一詩文集成』(京谷裕彰編、共和国)は、「戦前の日本シュルレアリスム運動の中心」にいて、シュルレアリスムの「受容から展開への要の時期に、極めて重要な仕事を遺した」幻の詩人の全貌を明かす。富士原もまた一冊の詩集も出さないまま徴兵され、三十六歳の若さで戦死した。時代の光と闇を詩への純粋な意志に映し出す言葉の、ガラスの美しさが胸を打つ。「風はすべての鳥を燃した/砂礫のあひだに錆びた草花は悶え/石炭は跳ねた/風それは発狂せる無数の手であった」(「成立」)
  平塚景堂『夜想の旅人』(編集工房ア)は、昨秋刊行の『白き風土のかたへに』よりも前に書かれた作品を収める。京都の禅僧でもある作者の独自のモダニズムあるいはシュルレアリスムは、風土を透明化し永遠へ吹きさらす。仏教哲学が詩の大胆な発想と展開をもたらしている。

「いま 窓の外では 霞(かすみ)にゆれて/ジャコメッティが歩いてゆく/物の誕生を/点滴のリズムに乗せて彫刻し/誕生こそが死の/懼(おそ)れであった時代を/今に呼び返している//ある日/曲がらざるものが/十億の瞬(まばた)きをする//その日/ぼくは 地下鉄の背後から忍び寄り/脳のいちばん細い繊毛(せんもう)を/学童たちの帽子に結(むす)んだ」(「虚空書簡」)
 左子真由美『RINKAKU(輪郭)』(竹林館)は、自身の中に見える詩の時空を、平易な言葉で抱き留めるように描き出す。作者の生と詩は、抱き抱かれる関係にある。掉尾を飾る詩「グラス」は象徴的だ。詩は「グラス」で詩人は「液体」か。それともそれは逆なのか。
「その形が/うつくしいのは/かろうじて薄い一枚の仕切りにより/なかにたたえられた液体を/しっかりと/抱き留めているからである/倒れることなく/壊れることなく/まして/役目を捨て去ることなど/決してなく/液体の重みを/支えているからである」