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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

『太陽の男たち』の上映会&徐京植さん講演会2

一昨日の徐京植さんの講演は
詩人として朝鮮学校の除外に反対する私にとって
深い所に届く言葉ばかりでした。

徐さんの言葉は
マイノリティの感覚と認識が研ぎ澄まされていて
普通の語りとしてはやや難解なのに
すっすっと透明な刃のように入ってきました。

その言葉は私の背後にいつしか回って
そして今度は私を突き動かすのです。

色々な話をしていただきました。
映画とからめて
パレスチナ人と在日朝鮮人の置かれた苦境が
歴史的に同じ植民地主義の継続のためであることや、
それを認知しない日本が
今回の朝鮮半島の緊迫状況で一番危険な関わり方をしていること、
民族文学とは
侵略される自分とは誰か、という問いかけであること、
民族という「想像の共同体」は
死のイメージと共にあること(例、尹東柱「死ぬ日まで天を仰ぎ…」)
言語的境界と国の境界がイコールと思いこんでいる日本は
文学において言語的ナショナリズム(侵略する自分の正当化)に陥っていること
…………

とりわけ今思い出されるのは
帰化しようかと悩む友人にどんなアドバイスをしたらいいか、
という会場からの質問にたいする
徐さんの答えの中で使われた
「構造の自覚」という言葉です。

帰化する人を裏切りだとかや倫理にもとるとか批判することはできない。
しかし帰化が自由な選択と思うのは間違いである。
それが強いられた選択であるというその構造を、帰化する人が自覚することが不可欠である。
自分が変わりさえすればいい、というのではだめだ、
構造の自覚が必要なのだ、と。

そこがすごく心に残りました。
構造。
私はこう考えます。
それは容易には変わらないからこそ、構造というのかもしれない。
そこではあの給水タンクのように叩いても叩いても
誰も助けに来ないかもしれない。
けれど構造を自覚することは
構造を変えようと叩きつづける営みをすることなのです。
応答がなくともその営みを続けるしかないけれど
しかし叩き続けるという行為を構造に記憶させることが
かすかではあっても世界の傷として残り
きっと誰かを励ますという希望を信じることはできるのではないでしょうか。