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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸『水の透視画法』(共同通信社)(一)

辺見庸『水の透視画法』(共同通信社)が出ました。Image1455

ここに収められたエッセイの大部分は、2008年から2011年まで、共同通信社の配信で全国各紙に掲載されたもの。私も京都新聞で読むのを楽しみにしていました。

連載時には辺見さんご自身が(以前テレビで見たように恐らく携帯カメラで)撮られた美しい写真も載っていて、それもまた楽しみでしたが、この本にもその何枚かが入っています。

(いずれしっかりした書評を書くつもりですが、ここでは一読後のほやほやの感銘と共感を、とりとめもなく綴っていきます。文章が不統一になるのをお許し下さい。)

この本には、そのときどきの時事的なテーマや、現実の空気から敏感に触発された文章が並んでいます。しかし扱われている現実や事物は、決してすんなりとした散文によって描かれたりやり過ごされたりしてはいません。そうではなく、深く、暗い闇の中から光り出すコケのように、思念の沈黙の中からひとつひとつ、人間的な温度と言葉自身の不思議ないきづきと共に生みだされているのです。読む者は、繊細で鋭敏な思考を追う喜びと共に、各所で世界の奥処の花の香りをきくように、素晴らしい言葉体験を味わうことができます。

詩人の言葉の欲望は、つねに言葉にならない方向にのびていきます。現実の隠されていた痛点に触れようとします。ここで痛点とは、そこに触れれば、読む者も、作家自身も、世界そのものも、そして何よりも言葉そのものが、沈黙し、震え、陰影を濃くして、新たな方向へと向き直る地点のこと。それらがこの一書にはちりばめられています。

「痛覚」という言葉が何度かでてきます。

「石原のことばは濡れた荒縄のように私の胸をしめつける。論理の不合理性が、かえって状況の視(み)えない急所をつき、古い痛覚を刺激してくる。」(「ことばに見はなされること」)
 
 この引用箇所の「石原」とは、詩人の石原吉郎シベリア抑留体験をもつこの詩人自身の、「(注:ことばは)とどくまえにはやくも拡散している。民主主義は、おそらく私たちのことばを無限に拡散して行くだろうと思います。」などいくつかの文章も引用されています(それらの引用から、辺見さんが「言葉」を「ことば」とするのは、石原を念頭に置いているからではないか、とふと直感しました)。集中なかばのこの「ことばに見はなされること」には、言葉をめぐる本質的な思考が展開されています。「ことばを私たちがうばわれるのではなく、私たちがことばから見はなされる」と石原が書いたそのこと自体を、今の時代の闇の中で希望として受け止めながら。

たしかに今、ますます私たちはますます言葉に見はなされていると私も実感します。あるいは私たちの手にのこされた言葉は、現実から、思念から乖離し続けるひらひらとしたうすっぺらな記号となっている。しかし言葉の存在である人間が、言葉に見はなされてはならないはずです。私たちは世界と「膚接」しなくてはならない、もっと痛みを、痛覚をもたなくてはならない、そして(同じことだが)、みずからの「沈黙」へと耳を澄まし集中し、くりかえし言葉を差し向けようとしなくてはならない──。そのような人としての本来的なあり方を、この本にある言葉は身を以て、あらためて教えてくれました。