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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

1月16日付京都新聞朝刊・「詩歌の本棚」新刊評

   辺見庸『瓦礫の中から言葉を─わたしの〈死者〉へ』(NHK出版新書)は、今詩を考える上で大きなヒントを与えてくれる一書だ。3.11以後、この社会をあからさまに覆いだしたメディアを中心とした空疎な言葉たち。だがじつはそれ以前から言葉と実体は離れ、主体的な深さを喪失していた。震災後の状況はそれをはっきり証明したに過ぎない。しかし言葉の空洞化ほど人にとってつらいことはない。「複製不可能な、他にはない、まったく希有な、ドキドキするほど鮮やかな、はじめての言葉とのであいと感動を、この社会はなぜ必死で求めないのでしょうか」。氏はさらに言葉に対する関心の低下は、人間への関心の薄らぎであると警告する。つまり詩は震災後こそ大きな使命を持つのだ。社会の各所から今きこえる苦しみの声と、遙かに共鳴するものとして。
 杉山平一『希望』(編集工房ノアは、各作品が見開きに収まるいわば「掌篇詩集」。九十七年の長い歳月から集められた詩の蜜のようなライトヴァース集だ。だが短いながらも擬人法やウィットを活用して視点を複層化し、読者をどこか遠方へと巧みに投げだす。次の作品は、言葉と実体との関係を看破した「詩論詩」となっている。
「ある美術館の壷の絵の表題が/『置く』と書かれているのに感心した/置くという言葉によって/壷に生きた血がかようようだった/壷とはAとかB同様の符号にすぎない/それが、ことばをつけることによって人間の仲間になり/さわるものになり/持つものになり/血のかようものになるのだ/ことばによって物は発見され/生きて我らの仲間になる//世界はことばによって発見されつゞける」(「ことば」)
 八柳李花サンクチュアリ』(思潮社は、言葉が実体をもとめるというより、むしろ手放すことを意図しているようだ。若い詩人にとって、それだけ実体は過重なのか。だが手放そうとして、言葉の指先がひんやりと実体に触れた一瞬、どきりとこちらに伝わるものがある。省略できる部分を大胆に省略すれば、もっと言葉に速度とリズムが出ると思う。
「枯木にながれる、一筋のうるおいを/攪拌させた午後はもう/なだらかで。/余計に摘んだ切り花に道を/おおわれている、/それはわたしの骨の音が/降るようにして。/花びらも地面に積もらず消え。/圧縮された未来が/そこにあった、/なにも実感できないとしても、それは/平面的な幾何学の問題で。/砂がきしむ音で名前を擦られていた、/そうやって文字はだんだんと精密になる、」(「04」)
 牧田久未『林檎の記憶』(思潮社にある林檎のモチーフによる連作は、谷川俊太郎の「りんごへの固執」を想い出させる。谷川のそれは林檎の存在論だったが、ここでは林檎にまつわる神話や科学の逸話にもとづき、社会批評が展開する。また言葉と実体をめぐる詩論も作品化されている。
「朝日と夕日のせつない距離//同じものを同時に/違う名で呼び/国境は封鎖される//違うものを/同じ名で呼び/紛争は一時回避された//言葉とは/いったい どこの国の/だれを探しているのだろう」(「惑わし」)
 南原魚人『TONIC WALKER』(土曜美術社出版販売)は、世界の変容を戯画的に描く。ここでも言葉と実体の裂け目が痛感されている。
「そもそも、おもちゃのブロックですら何も作れない私が言葉で無形の真実を作ろうとすること自体が最初から間違いなのです。」(「拝啓、」)