最近一九七〇年代の詩や詩論を読む機会がなぜか多い。六〇年代の政治の季節以後失われた連帯を、内面を突きつめることで模索した言わば「内向の時代」。代表的詩人として「プロレタリア系前衛派」の黒田喜夫がいる。「詩は飢えた子供に何ができるか」という問いを、政治の次元より深く自身の心に潜む「飢えた子供」の問題として捉え直し、そこから幻想的な詩や斬新な詩論を生み出した。
米村敏人『暮色の葉脈』(澪標)は第六詩集。作者は黒田氏との親交が深かった。黒田氏の著書『負性と奪回』(三一書房、七二年)に収録された対談は、吉本隆明氏の『共同幻想論』を鋭く批判する。また米村氏は著書『わが村史』(国文社、七三年)で、吉祥院(京都)の「村」での少年期の記憶と、黒田氏の「飢え」の思想に共鳴しながら向き合う。いずれも今の詩にはない、「実存」をかい潜った言葉の力に圧倒される。
「あとがき」の一節が印象的だ。「地上に言葉、地下に沈黙。その間に一本の荒縄が降りている。そこに私の詩もぶら下がる。」この「地上」は意識、「地下」は無意識か。あるい詩を書く自身を含む言葉を持つ者の場と、様々な意味で言葉を持てない者の場なのか。「荒縄」に詩が「ぶら下がる」イメージは、不穏に身体的だが、本詩集の詩の多くは、心の傷に触れるように感覚や記憶を遡って書かれている。実父母や継母の痛切な記憶、虫や葉への危うい共感。自身の「高所恐怖症」を遡る詩「高い高い高い」から末尾を引く。
「ついこの間/生まれて初めて/サーカスなるものを生で観た/演し物の最後にキリンが出た/五米余を下から見上げた時/ふと滑り台の恐怖が甦った/キリンよりずっと低いはずだが/あの頃の目線ではほぼ等しい/一瞬キリンの胴体を時間が遡る//姉からはぐれ/途方に暮れていたとき/私の脇を抱えて/背後から(高い高い高い)をしたのは/いったい誰だったのだろう/ふんわり持ち上げられた高さは/父親におんぶされた背中と/同じくらいの/安堵の高さだった」
病床の黒田氏の姿も描き入れた巻頭作「新聞紙(がみ)三態」も興味深い。
荒木時彦『crack』(アライグマ企画)は小さな実験詩集。頁を開くとまず、各見開きのノドから広がる余白によって意識は亀裂を入れられる。すると番号を振られ左右の小口に寄った寡黙な詩行が、同時に目に入りふいに声を和すように感じられるのだ。「かかと」「夜」「雪」「欲望」などをキーワードとしつつ、この詩集のテーマは、レイアウト自体が体現する「crack(亀裂)」なのだろう。当然それは、作者の内面と日常の双方にも走っている。
「右足のかかとを落としてきてしまった。//数日前のことだ、たぶん。/夜を見失ってあわてていたとき。」(「1」)「饒舌が、かかとを苦しめたのかもしれない。」(「2」)「かかとが小さな欲望について行く。/夜は巻き添えにされただけだ。」(「14」)「多分、その小さな欲望は、/オレンジ・ピコーのようなものだ。」(「15」)「小さな欲望の残りかすのせいで、/紅茶の葉は未解決のまま。」(「16」)「椅子に座る午後。/クラック/亀裂(が走る)」(「17」)
リジア・シュムクーテ詩集『煌めく風』(薬師川虹一訳、竹林館)も、異国で生きるリトアニアの詩人が感受する、甘美な「飢え」と「亀裂」を見せる詩集だ。
「ウズピスは/ヴィリニュスの風説の壁//街角を曲がれば/蜘蛛の巣が/不安
げに待ちうける//屋根の花は枯れ//一つの夢が飢えから生まれる」(「ウズピスは」)