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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

6月4日京都新聞朝刊 「詩歌の本棚」

6月4日京都新聞朝刊 「詩歌の本棚」

                                  河津聖恵

 辺見庸氏の新刊『死と滅亡のパンセ』所収のエッセイ「『眼の海』をめぐる思索と想念」は、今詩を考える上で興味深い。大震災の衝撃は氏に新たな詩の境地をもたらした。その内的経緯はまさに原初の詩の発生を見るようだ。「出来事に揺さぶられ、わたしの奥底で眠っていたオブジェみたいなものが生き返って噴き出してくるような感じがありました。」「自分でも考えてもいなかったような想念や言葉、シンタックス(構文)が出てきました。また、そうでなければ嘘だということです。」3.11後も社会は「死と滅亡」に眼を背け続ける。だからこそ詩は、言葉が負う傷口から、破滅の「光景」を見つめる方途を模索すべきなのだ。
 有吉篤夫 『細流』(洛西書院)は、庭や部屋の内部や故郷の風景といった何気ない「光景」を、記憶と現在の往還によって揺らがせつつ描く。それが単なる描写に終わらないのは、主体である「私」が「光景」の内部にいないからだ。「私」は詩の外側に消え、内側に「言葉の意識」がはりつめる。「光景」は日常を装いながらも、不穏なエネルギーを静かに溜めていく。
「圧倒的な蟹がいる/石組に嵌込まれている土管に入っていく/列をなして茶色の土管に入っていく/暗い穴の奥で蠢いている//雨上がりの廃寺の水溜りで/沢蟹を見つけた/手にとると/柔らかな甲殻に弱さを覚えた/月日とともに記憶は薄れていくのに/その甲殻の柔らかさは指先に残ったままだ//潮の干満を繰り返す海辺に/蟹がいる/限りない数の蟹は移動する」(「蟹」)
 『藤井雅人詩集』(土曜美術出版販売)は、詩とエッセイのアンソロジー。詩論「詩と祝祭」で藤井氏は、「批判的語り部」たることを「自らに課したい」と書く。その意味は、「まず原初的共同体における語り部につらなる存在としての自己の位置をはっきりさせ、全体感覚という詩の基盤を自覚すること」だ。それは複雑化し、根源を見失った現代詩へのアンチテーゼであるが、その上で氏は、かつて戦争協力詩を生んだ時代のように、詩が原初的感覚に無批判に頼る危険に陥ることを危惧し、自己批判と読者からの批判の双方に鍛えられることを主張する。氏の「人類の祝祭のなかだち」という詩の定義は、今大いに頷くものがある。作品に「歌」や「祈り」が散見するのも、氏の詩観と深く関わるだろう。
「在らせてください 平安のなかに と/ことばが洩れでる瞬間に/それはむなしい抜け殻だろう/おまえは竦んで ひからびた反響を聴くだろう/堂の空虚に ことばが消えゆく時を耐えながら//ゆらぎながら おまえは待ちうけている/ことばでないことばが おまえに満ちる一瞬を/その時 おまえのすべての臓腑はつかみとられ/旅だつのだろう 非有のことばとともに/空の涯をさして」(「祈りの場」)
  真田かずこ『奥琵琶湖の細波(さざなみ)』(コールサック社)は、五年前に憧れの琵琶湖に念願の定住を果たした著者の、湖へのオマージュ。「私はこの地へ『来た者』ではなく、『戻ってきた者』のような気がしてならない。」(「あとがきに代えて」)その回帰の喜びが、詩に音律やリフレインの波を呼び起こした。詩を書くことで、湖は著者の蘇生の「光景」となった。
「ただただ 湖を眺めて暮らすことは可能だろうか/夜明けまえ 漁舟が静かに視界を横切っていくのを/お日様の黄金の道が 湖面を走ってやってくるのを/水辺の柳はみどりに霞み 桜の花びらが波形にただようのを 」(「奥琵琶湖」)