京都詩人会議における講演でのさいごは、質疑応答でした。
最初、「誰も手をあげないのではないか」と案じていましたが(というのも、これまでの経験上、詩の講演会の場合、余り積極的な挙手はないのがふつうですから)、
しかし何人もの人が、感想も含めて手を挙げてくれました。
メモに残っているものだけ、簡単に紹介します。
大きな課題として、無常観をどう乗り越えるべきだろうか。
宮沢賢治は関東大震災の後に独自の世界を構築したが、彼がどう生き延びようとしてきたかは大いに参考になるのではないか。
今回の東日本大震災の被害につながるような社会の大きな変化が続いていたのではないか。
1995年以来オウム、阪神大震災、9.11そして3.11。
いわゆるモダンな詩もまた向き合わざるをえない変化ではないか。
詩が無力だといわれるというのは、在日朝鮮人として生きることは無力だという諦めにつながっている。
その結果同化や帰化という方向へ押し流されてしまうのではないか。(在日コリアンの青年)
あなたはポストモダンの限界をいつ気づいたのか。
個を立ち上げて、自分の生活と時代、3.11の死者にどう向き合うべきだろうか。
今、祈りはとても重要だと思うが、悼むということについてどう考えているか。
・・・・
以上の中のいくつかの問いかけに、私もその場でそれなりに答えましたが、
より深い答えを必要とするものばかりです。
しかし皆さんが私の拙いことばをそれぞれの立場で誠実に受け止め
思いを巡らせながら聞いてくれていたのだなということが
よく分かって嬉しかったです。
じつは来る日曜日の11月20日にも
関西詩人協会の会合で1時間程度話をします。
タイトルは「ことばが詩の光を放つとき」。
震災とは切り離した実作中心の話にしようと考えていたのですが、
今回の震災をテーマとした話に対する詩人会議の皆さんの反応がとても良かったので、
やはり震災をからませようと思います。
ただこんどは、瓦礫の中から詩の光がきらきらと煌めくような、
詩の原初的な意識をまずは触発するものにしたいです。