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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

11月12日講演「東日本大震災にとって詩とは何か」(一)

11月12日にラポール京都にて P1030168_11
講演「東日本大震災にとって詩とは何か」というタイトルで
一時間半にわたり、講演をさせてもらいました。

京都詩人会議主催。
天気のいい観光日和の日曜日にも関わらず
40名程が参集してくれました。
皆さん、大変熱心に耳を傾けてくれ、
私の方も拙いながらも自分の思うところを率直に語ることができました。

先月の日光もそうでしたが P1030139
大震災後、どのような詩を書いたらいいのか、
あるいは詩とは何なのか、というつよい問題意識が
詩に関わる者の奥底に今濃厚に存在していると実感しました。

まず、「東日本大震災にとって詩とは何か」という
逆説的なタイトルにしたのはなぜか、ということを説明しました。

「詩にとって大震災とは何か」では余りにも傲慢。
一方前者のタイトルでは詩なんて木っ端微塵。
けれどだからといって今よく言われるように
「詩は無力だ」といってのけてしまうのは大変違和感があった。
「無力」という権利は読者にはあっても書き手にはないはずだから。

だから結論の行方はまったく見えなかったけれど
東日本大震災にとって詩とは何か」という困難なタイトルの方を選んだ。

そして今詩の「無力」を唱える論調からは
むしろ無言の政治的圧力を感じざるをえないこと。

例えば現在、詩と状況を考える上で
堀田善衛の『方丈記私記』は面白いこと。
堀田は今と同様に次々と大震災に見舞われた大乱世から戦後まで
遥か八百年の時を越えて続く
やすやすと政治利用されてしまう日本人の無常観や優しさを
「俗無常観」と名づけていること。

その結果、
政治利用する政治家と政治利用されたい民衆の共犯関係のように
日本には両者の関係の不健全さがあり
しかもそれが「優しさ」とみえているということ。
日本人のその「優しさ」の本質が無常観であること。

そもそも日本の現代詩(=関東大震災から始まったと言われる)は
「詩は非政治的であるべきだ」
という不文律を結果的に作り上げてきたこと。
(非政治的であるまいとした詩人もたくさんいたにも関わらず)

だが現在の政治状況とは恐らく最終的なもの。
もはやわずかに残された、状況を押しかえす詩の主体性をも
完全に消滅させようとする類のものであるはずであること。

だから日本人の根源をからめとる無常観からもはや身をひきはがし、
突き付けられる死(少なくとも自分の詩に対して、或いは詩を主体的に書きうる環境に突き付けられている破壊と暴力)に対し、
一人一人のいのちの肉声が響く空間を切り拓くべきであること。

歴史をふりかえり
関東大震災の前後の詩の状況を見れば
たとえ一瞬の花火であっても
いのちの肉声が響く空間を切り拓いた詩人たちがいたこと。

詩的活性化の原因は以下のように挙げられる。
第一次大戦後の戦後不況と
それにともなって顕わになった当時の日本の諸矛盾が一気に噴出したこと。
社会構造や歴史に一つの転機がきたこと。
ヨーロッパに起こった未来派、立体派、表現派などの新興芸術運動の影響と
大戦末期に起こったロシア革命の影響とマルキシズムの知識人・労働者階級への浸透
がまるで爆弾のように詩人たちの心に投げこまれたこと。

高村光太郎大杉栄などのように
本能によってすべてに立ち向かおうとした詩人たち。
朔太郎のように感情を解放しようとした詩人たち。
そのような詩的エネルギーの結実として
平戸廉吉『日本未来派宣言運動』、高橋新吉ダダイスト新吉の詩』、アナーキスト『赤と黒』が発刊されたこと。

震災直前にダダイズムに目覚めた中原中也に焦点を当てると
震災の前後の時代と詩の関係が見てとりやすいこと。
中也が「純粋持続」という時間観念で、
みずからの詩のありかを「歴史」という未来へ突き進む時間から
護ろうとしたこと。
中也は詩の価値を「もののあはれ」に置いたことで
無常観と危うい関係にあったが
結局は、暗い時代に詩を奪われて神経を病んだこと。

『赤と黒』を中心としたアナキズム詩人たちは街頭に立ち
直接人間の中に入ることを重視し
文壇の否定という点でプロレタリア文学を対峙したこと。

震災直後に被災者支援のために『震災詩集』が出され
そこでは朝鮮人虐殺の詩も書かれたこと。

萩原恭次郎『死刑宣告』が
天皇暗殺未遂のために死刑に処せられた難波大助に捧げられたものであると
推測されること。
関東大震災をテーマとした「地震の日に」は
大震災のさなかに亀戸事件で殺された社会主義者への追悼詩である可能性があること。

……とここまででほぼ時間はなくなったのですが、
では今現在どのような詩が震災に向き合って書かれているのかについて
辺見庸さんの詩とエッセイの一部を紹介することで
簡単に述べました。
(ある方から最後を辺見さんの仕事の紹介で終わったのはとても良かったと言われました)

以上ざっと講演の内容をまとめました。
さらに質疑応答の時間で出た問いかけを、明日まとめてみたいと思います。