今年はアンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』が刊行されてから百年目。久しぶりに同書を繙いてみた。百年前に書かれたとは思えないほど、今詩を書くことを熱く鼓舞する声が聞こえてきて驚いた。シュルレアリストたちは想像力を愛おしみ畏怖し、無意識や夢に耳を傾けながら、無償で純粋な詩を書くために生きたのだとあらためて実感する。詩人たちのひたむきさに胸を深く打たれる。恐らく今だからこそ。
玉井國太郎『玉井國太郎詩集』(洪水企画)は日本では近年稀に見る優れたシュルレアリスム詩集。ここにはブルトンの詩のような自動記述はなく、無意識というよりむしろ繊細な思考によってイメージとイメージは繋がれる。しかし詩によって壊れた世界を新たな世界へと蘇生させようとする意志において、作者とブルトンは遥かに連帯していると言えよう。詩を書くかたわら、ジャズピアニストとしても活躍した作者は2010年、50歳で自ら命を絶った。理由は知る由もないが、全ての作品に世界の外部に触れるような危うさと美しさがある。だが最後まで詩の「夢見る力」を信じて懸命に生きたことは、作品全てから痛いほど伝わってくる。現在の戦争をも見通してしまったかのような絶望と、それでも遥かな友愛に賭ける希望。そのはざまで揺れながら書き続けた作者の「終わりのないうた」が、時を超え、多くの人々の琴線に触れてゆくことを願う。
「窓をあけてください/時をこえて/あなたの腕をひろげて/夜の果てに/ふたりの星座を打ち上げるため//うたをつくりました/あなたが/景色に耳をすますやり方で/終わりのないうた/ふるえるのどにからみつく//気まぐれな神さまの企みのまん中を/わらいながら/駆け抜ける風のけもの//あなたが/佇(たたず)み もの想うはやさは/すべてのくるしい夜をまたいでゆく/うごかない地面が/いまも宇宙を旅する速さをなぞり/泡立つひかりの/ひとつひとつとなって//窓をあけてください/永遠にとどく眼差しを/まっすぐにのばして/うたをつくり 踊りながら/ふたりの命を包み合うように」(「窓をあけてください」全文)
依田義丸『連禱』(思潮社)もまたシュルレアリスムの詩集。全篇が散文詩だが、ふと日本のシュルレアリスム詩に散文詩が多いことを思い出した。理由は、恐らく行分けでは余白が重く、想像力を羽ばたかせにくいからだ。例えば瀧口修造は短いフレーズをたたみこみリズムを作る。だが本詩集の一文一文は一般的な長さであり、とりわけリズムを作ることなく、流れるように惨劇を描き出す。語り手はなすすべもなく惨劇に巻き込まれるが、それこそは詩人の意志だ。本詩集は「ぼく」が詩に巻き込まれることで、どんな未知の光景が見えてくるのかを試す実験詩集とも言えよう。本年春に亡くなった作者が、現実を超えて見た真実の光景とはー
「ぼくの目の前を、一本の針が布を縫い進んでいく。真っ赤な布は大きく広がり、ひと針ひと針、赤い縫い目がどこまでも伸びていく。ぼくは自分の見た奇蹟を書き残したい衝動に駆られる。/一隻の船が海を航行しはじめる。海は残照に真っ赤に染められ、船の後には赤い航跡が残されていく。ぼくが安堵していると、一本の針が真っ赤な海を進んで、赤い航跡が縫い込まれていく。/ぼくは不安に襲われる。そして、さっきまで見ていたものが、針だったのか船だったのか、わからなくなってしまう。」(「針と船」全文)