「戦後詩」というカテゴリーがある。戦争体験を重要なモチーフとする詩を指すが、代表的な詩誌に『荒地』と『列島』がある。傾向としては、前者では知性に基づき個の内面を深める詩、後者では現実に向き合い人間性を回復する詩が目指された。「詩と政治」の問題が突きつけられる今、戦後詩をあらためて振り返り、考える必要があるだろう。
『木島始詩集』(コールサック社)は、一九五三年の詩集の復刻版。『列島』を代表する詩人である木島は、一九二八年京都に生まれた(二〇〇四年没)。旧制高校生の時広島で原爆を目の当たりにした体験が、詩の原点にある。ラングストン・ヒューズや黒人文学の翻訳も手がけた。野間宏は木島についてこう評価する。「このように最初に平和によって自覚した詩人の魂を私達が日本にもつことができたのは、はじめてのことである。平和によって最初に自覚した魂は平和がおびやかされるとき、はげしいいかりをもってばくはつする」。また有馬敲は「京都人の芯の強さと時代風潮に逆らう気骨」を見る。危機への鋭敏な感覚と美的感受性に研ぎ澄まされた木島の詩は、今長い眠りから目覚め、声と眼差しをこちらへ新鮮に放ってくる。
「砂埃のようにぼくらの危惧を!/鳩はついにその鼓動の高鳴りをぼくらに放った。/掌から指先に急ぐぼくらの血が、/そのはばたいてゆく速度にきそい、/しかとぼくらはみな胸にするのだ。/その、たったいま別れたばかりの/恋人のような美しさと健気さを!/鳩 ………いまや、空を馳せるぼくらの純白の軌跡。/誓って、方位まごうまいぼくらの鳩」(「鳩」全文、一九五〇)
『安水稔和詩集成』(上下巻、沖積舎)は、初期から現在まで六十七年間の仕事をまとめる。上は敗戦後の深い虚無感にもがく『存在のための歌』(一九五三)、下は「五十年目の戦争」である大震災後、心の傷を癒そうと書かれた『生きているということ』(一九九九)から始まる。その構成にも、阪神淡路大震災後、追悼詩を書き続ける作者の思いが反映している。
「私は歌いたい/何を どのように/私は歌いたい/心いっぱいのやさしさこめて/私は歌いたい/花と戦争を/私は歌いたい/愛を愛してしまった死を/私は歌いたい/真昼 海沿いの寒村に降った黄色の雨を/その前夜 谷を渡っていたおびただしい松の花粉を/私は同様に歌いたい/何を/死の造花を/私たちの頭上に開いた薔薇を/たえまなく舞いおちるその花粉を」「私は歌いたい/歌いたい この巨大な造花の 火の/死の契約を/心いっぱいのやさしさこめて/歌いたい」(「一九五四年五月の歌」)
片岡美沙保『月宮記』(私家版)は、末尾の一篇を除く全詩が、行分け(上)と散文(下)の二段組み。あとがきによれば、友人達の死がもたらした「統合できない感覚」が形式の亀裂を生んだが、書き進める中で「行分け詩を乞うるように」なったと言う。詩が生死の割り切れなさを昇華したのだろう。最後に到達した行分け詩は、文法的に亀裂を入れながら不思議に輝く。
「ここは無口な場所/ひかりの中のひかりをゆらぎ/ひかりの中のひかりと動く/記憶の足が駆けぬけてゆく/音もたてずにしずかを読んだ/この超日を帰るものがある/未熟のうちに還るものがある//のちの光として」(「(のちの光)」) 津坂治男『白い太陽』(銀の鈴社)は、「ジュニアポエム」をまとめた。戦後七十年目に、少年少女に人や動物のいとおしさについて、詩的ユーモアをこめて語りかける。作者はかつて『列島』の会員でもあった。