『朴正大詩集 チェ・ゲバラ万歳』(権宅明訳、佐川亜紀監修、土曜美術社出版販売)は、韓国の民主化世代の詩人(一九六五年生)の訳詩集。メッセージ性と抒情性が一体となった長い各行は、ラップの詩のように一息に読まれる勢いと言葉の野性味がある。昨年末の百五十万人デモのうねりと通底する詩の力を感じた。「革命」という言葉さえ詩語として煌めいているのだ。「タバコの煙は我が魂の桃の花/革命は一匹の感情」「詩は革命だ」「みんなのためになる革命とは僕らが喜んで自らの異邦人になることだ」―。
『倉橋健一選集』(澪標)が完結した。倉橋氏は一九三四年京都市生まれ。六〇年代以降大阪で活動する。詩誌「山河」「白鯨」に参加し、現在は「イリプス」を編集。最終第六巻は、一九八〇年代から二〇〇〇年代までの単行本未収録の全時評を収めた。それらの時代、現代詩は戦後詩の文脈から離脱して「詩壇ジャーナリズム」を形成し、八〇年代以降はポストモダニズムの影響下「言語派」が席巻した。だが倉橋氏は状況の中で冷静に、レトリックを超えて切実さの伝わる詩を評価していて共感する。
「しかし私は、毎月たくさんの詩集や雑誌にふれながら、そんな流行にまどわされて、みずからも白けきっしまうような感覚だけはなんとしても持つまいと思う。切実な主題は、日常のくらしの奥にまぎれもなく沈静してある。それをねばりづよく追求し、みずからの物語をつむぎだすことこそが、詩のほんとうの夢であるだろう。」(一九八六)
苗村和正『四季のひかり』(編集工房ノア)は、約十年間の詩作の結実。作者は「くるしみの石を日々だまってのみこんでいる」日常の無明の中で、詩を書き救済の光を見出してきた。繊細な比喩に長い歳月の模索を感じる。詩を救済と関わるものとして捉えることは、今むしろリアルだ。詩を書くことは、言葉による「胎内めぐり」だろうか。
「随求(ずいぐ)堂で/胎内めぐりをしました/なにもみえない暗闇のなかで/なにかに触(さわ)ったことでわたしは動揺していました。/そのときわたしはきっともうながいあいだ/なみだとは無縁なあさましい修羅を生きていることに/気付いたのでした//胎内めぐりをした日/こころがまぶしくあおいだ空に/蝸牛(かたつむり)のような小さな雲が/それはたくさんながれていました」(「胎内めぐり」)
萩野優子『おはよう』(編集工房ノア)の作者も、「書くことによって、今、生かされていると感じて」いる。日常の底から生の実感を求めて言葉を研ぎ澄まし、真実の世界をひらく―たしかにそれが人にとって詩という行為が持つ意味だろう。まだ途上にありながらも、作者はそうした実感をたしかにつかんでいる。
「しんしんと降ってくる/レールに向かって降りしきる/しんしん しんしん降り続く//雪の粒が/わたしを叩く/何度も叩き続ける/さあ……/白い声が満ちてきて/体がだんだん熱くなる//列車がやって来た/わたしは重かった足を踏み出す」(「雪」)
尾崎まこと『大阪・SENSATION』(竹林館)は写真集。
「詩的にいうと大阪は有史以前からの「記憶の都市」である。同時に今日も、夢と挫折と未来を背負ったLIFEの「舞台」であり続けている。(略)大阪にいると人は幾分か役者であることを強いられる。その舞台の書き割り(風景)を撮った。」
どの写真にも詩的な熱と陰翳がある。詩人=写真家の目は、かつて小野十三郎が詩で描いた風景の重さと人間臭さを、魅惑的に蘇らせた。