数日前尹東柱の映画について書きましたが、
今日は、茨木のり子さんと尹東柱との関係について少し触れます。
少し前のことになりますが、去る4月23日、愛知県西尾市の「横須賀ふれあいセンター」で
「茨木のり子と尹東柱」という講演をさせていただきました。(ツイッターやフェイスブックでは記事を書きましたが、ブログではまだだったと気づきました)。
同市に拠点を置く「茨木のり子の会」にお声を掛けていただき、実現しました。 (同市には茨木のり子さんのご実家があります。)
講演の準備の過程で、尹との関係を念頭において『全詩集』やエッセイを読み返していくうちに、様々な発見がありました。大変学ぶところが多かった時間でした。
以下、当日の講演のエッセンスだけ。
茨木さんは夫の死の翌年、つまり76年4月から韓国語を習い始めます。ここからの詩人としての人生の後半生で、韓国・朝鮮と関わっていくことになります。そしてそれは魂の深みへの回帰の旅のはじまりだったのでした。
なぜハングルを? ときかれて茨木さんは様々な答えがあると言いつつ、
「こんなふうに私の動機はいりくんでいて、問われても、うまくは答えられないから、全部ひっくるめて最近は、「隣の国のことばですもの」と言うことにしている。」(「ハングルへの旅」)
とおっしゃっています。
しかしそれらの理由の中でやはり夫の死が最も大きかったでしょう。
「今から思えば三十年前になります。個人的な話ですが、私は夫に先立たれて不幸のどん底にいましたから、先生の明るさとか、陽性なところ、何よりその授業がたいへんおもしろかったものですから、不幸から少しずつ立ち直れたということがありまして、ほんとうにお目にかかれてよかったと思います。」(『言葉が通じてこそ、友だちになれる―韓国語を学んで』)
「つらい時期に、何語であれ、語学をやるというのは、脱け出すのにいい方法かもしれません。単語一つ覚えるのだって、前へ前へ進まなければできないことですし。」(同)
そしてこつこつと努力し、やがて韓国の詩を翻訳するまでになり、『韓国語現代詩選』を出します。
その時のことを『言葉が通じてこそ、友だちになれる―韓国語を学んで』)でこう書いています。
「大変だったでしょう? とよく言われますが、大変は大変でしたが、でも、皆が思ってくれるほどではありません。」
「発見といえば、韓国の詩は〈生きる〉ということと切実につながっていると感じました。メッセージ性が強いというか。花鳥風月はいたって少ない。日本の現代詩は言語派が主流です。そのために非常に難解です。わたしなどは、生活派ということで、くくられてしまうんですけど。」
「詩にはいろいろあるので断定はできませんし、私だけがこのように思っていることかもしれませんが、韓国の詩は古い詩も現代詩も、目に映る描写より感じることを言葉にすることが多いです。感情というか、気持ちを表現する言葉ですね。有名な尹東柱の星空を歌った詩のように。」
「言語派」も結局は花鳥風月、目による描写である日本の詩よりも、感動や志を率直にうたう韓国の詩に惹かれたということですね。
ところで私はこの講演で少し大胆なことを語りました。
それは茨木さんは尹東柱に、どこか夫を重なり合うものを感じたのではないか、という仮説です。それは亡き夫をモチーフとした詩「月の光」(『歳月』)と、尹が出てくる詩「隣国の森」(『寸志』)との間に、深い関係を感じたからです。
「月の光」全文:
「ある夏の/ひなびた温泉で/湯あがりのうたたねのあなたに/皓皓(こうこう)の満月 冴えわたり/ものみな水底(みなそこ)のような静けさ/月の光を浴びて眠ってはいけない/不吉である/どこの言い伝えだったろうか/なにで読んだのだったろうか/ふいに頭をよぎったけれど/ずらすこともせず/戸をしめることも/顔を覆うこともしなかった/ただ ゆっくりと眠らせてあげたくて/あれがいけなかったのかしら/いまも/目に浮ぶ/蒼白の光を浴びて/眠っていた/あなたの鼻梁/頬/浴衣/素足」
詩「隣国語の森」(第六連から最終連):
「大辞典を枕にうたた寝をすれば/「君の入ってきかたが遅かった」と/尹東柱(ユンドンジユ)にやさしく詰(なじ)られる/ほんとに遅かった/けれどなにごとも/遅すぎたとは思わないことにしています/若い詩人 尹東柱/一九四五年二月 福岡刑務所で獄死/それがあなたたちにとっての光復節/わたくしたちにとっては降伏節の/八月十五日をさかのぼる僅か半年前であったとは/まだ学生服を着たままで/純潔だけを凍結したようなあなたの瞳が眩しい//――空を仰ぎ一点のはじらいもなきことを――//とうたい/当時敢然とハングル(注:原文
では「ハングル」はハングル表記)で詩を書いた/あなたの若さが眩しくそして痛ましい/木の切株に腰かけて/月光のように澄んだ詩篇のいくつかを/たどたどしい発音で読んでみるのだが/あなたはにこりともしない/是非もないこと/この先/どのあたりまで行けるでしょうか/行けるところまで/行き行きて倒れ伏すとも萩の原」
いかがでしょうか。
月の光がふりそそぐ夢のような時空が同じ、というだけでなく、「あなた」と尹東柱へのいとおしみ、そして「あなた」と尹東柱の死への悲しみは重なり合うものであるように私には思えました。
そして恐らく二人の風貌もどこか似ていたのではないか、とさえ思います。
「写真を見ると、実に清潔な美青年であり、けっして淡い印象ではない。ありふれてもいない。/実のところ私が尹東柱の詩を読みはじめたきっかけは彼の写真であった。こんな凛々しい青年がどんな詩を書いているのだろうという興味、いわばまことに不純な動機だった。/大学生らしい知的な雰囲気、それこそ汚れ一点だに留めていない若い顔、私が子供の頃仰ぎみた大学生とはこういう人々が多かったなあという或るなつかしみの感情。印象はきわめて鮮烈である。」(「尹東柱」)
さらにいえば、茨木さんご自身もまた、尹東柱のような凜とした心ばえを感じさせる詩人ですね。
当日は茨木さんと尹の親族との交流や、尹自身についても語りました。
いつか一つの文章としてまとめられたらと思っています。