#title a:before { content: url("http://www.hatena.ne.jp/users/{shikukan}/profile.gif"); }

河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

『「毒虫」詩論序説ー声と声なき声のはざまで』(ふらんす堂)について今思うこと

新著の版元であるふらんす堂の山岡喜美子さんのブログhttps://fragie.exblog.jp/31284757/

に以下の文章を寄せました。ちなみに山岡さんのブログでは、新著の造本についても詳しく紹介されています。

 

『「毒虫」詩論序説ー声と声なき声のはざまで』(ふらんす堂)について今思うこと

            河津聖恵

 

 本書は、2015年から19年にかけて発表した詩論、エッセイ、書評、時評をまとめたものです。今読み返すと、書いた当時は見えなかった思いが、ひとつながりのものとなって見えて来ます。それは不思議な声となって聞こえて来ます。声にならない声でありながらも、そのようなものとして声でありたい声として。
 2015年の、戦争法案とも呼ばれた安保法案の可決は、私にとっても特定秘密保護法テロ等準備罪の衝撃に追い討ちをかけるものでした。当日の朝に感じた身体の重さと世界の暗さは、今でも忘れられません。その前々日国会前で聞いたシュプレヒコールも雨音も、そして自分の心の声さえも、全て敗北感に押しつぶされていきました。
 その時ふいに思い浮かんだのが、カフカの『変身』の、ある朝毒虫になっていたという不条理な運命を背負わされた主人公ザムザです。本書の巻頭の文章は、その実感にもとづき書かれています。小説や詩を読むという体験の本当の意味は後からこんな風に手ひどくやって来るのだ、と身をもって知らされました。個人的な経験以外でこんな衝撃を受けたことはありません。それだけ事態が深刻だったのか、あるいはいつしか自分自身がより「当事者」の側に身を置くようになっていたのかー。いずれにせよ、自分があらたな未知の場所に立っているのを痛感しました。
 けれどその「無力」な場所に降りて初めて聞こえて来た声々がありました。これまで親近感を持ちながら、じつは文字面を追っていたに過ぎなかった詩人たちの「声なき声」が、不思議にも封を解かれるように聞こえて来たのです。
 60年安保の際やはり国会前に立った茨木のり子、米軍政下で反米デモに参加し弾圧された清田政信、皇国少年だった自身の日本語への復讐のため、詩を書き続ける金時鐘、シベリアからの帰還後もはや祖国とは思えない日本で辛い記憶と向き合い続けた石原吉郎、最晩年軍国主義と病がもたらす闇の中で光を求め南へ旅立った立原道造。そして高良留美子、石川逸子、石牟礼道子ー。その他、現在の闇を詩で向き合おうとしている沢山の詩人たちー。
 その中でとりわけ近く伴走してもらったのは、革命の持つ希望と絶望に引き裂かれながら、病をおして、日本の詩の可能性を逆転の発想で掴み取ろうとした黒田喜夫です。風土や歴史という、現代詩の「現代性」とは一見真逆な次元から、陰画としての「現代性」を立ち上げようとしたこの詩人の言葉と、今回の本にある言葉は隅々までどこかしら共鳴していると言っていいでしょう。
 ちなみに黒田と関連する文章も三作収録しています。なによりもこの本のタイトルにある「毒虫」は、黒田の代表作「毒虫飼育」から借りたと言えるものです。巻頭の文章にもあるように、まずはカフカのザムザとしてあったものが、やがて「毒虫飼育」の「母」の鬢にまつわる「毒虫」へとイメージをおのずと広げていったのです。
 かつても今も現代詩の外部にありながら、深く現代的である黒田の言葉と発想は、難解でありながら非常に根源的で、それを反芻すれば「毒虫化」へと追いやられ続ける今の世界から、新たな世界を立ち上げうるいう予感と希望を感じています。今回の本を土台に、いつかまたこの詩人に向き合ってみたいと思います。
 今奇しくもウイルスという本物の毒虫が世界を席巻しています。その中で詩とは何なのか、詩人とは何者なのかをあらためて問うためのヒントをこの本が少しでも世に提示出来るならば、作者としては望外の喜びです。