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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

11月4日京都新聞/詩歌の本棚・新刊評

11月4日京都新聞/詩歌の本棚・新刊評

                               河津聖恵

 夏の終わりに長野県上田市にある信濃デッサン館を訪ねた。館内には立原道造室があり、そこでひととき自筆原稿やパステル画を眺めて過ごした。夭折した抒情詩人として知られる立原だが、そのエッセイや手紙には、詩を求める真摯な思いと、詩人として生き尽くしたいという痛切な願いが満ちている。暗い時代のさなかに生きた真実の詩人は、素裸の感受性を信濃の自然に晒し、豊かな光と影を繊細な詩に紡いだ。その一方言葉で身を飾るダンディズムや観念的な詩は厳しく戒めた。「自分の眼を裸でものにさらせ! 傷つけ」という叱咤には、今もなお詩を撃つ力を感じる。

 中村純『はだかんぼ』(コールサック社)の作者は、原発事故後放射能被爆から逃れ、京都へ移住した。この詩集で作者の感受性は、立原の場合と真逆の「汚染された自然」に晒されている。それは幼子の無防備で美しい「はだかんぼ」の肌と共に、剥き出され傷ついている。全篇を貫く「訴える」という姿勢は必然的に散文性を呼び込み、同一語の反復が気になる箇所もあるが、それも魂の純粋さと力強さの証という印象が勝る。この詩集はむしろ感受性と散文性によって、「今詩とは何か」という問いかけを突きつけてくるのだ。

「あなたは勇敢で有能なひとりの女/あたらしい世界を拓くパイオニア/権威よりもやさしさを お金よりいのちを/海に流された人々のいのちと暮らし/降り続く死の灰/閉ざされた絶望の哀しみの日々に/自ら灯りを照らして歩いていく 新しい女//ふるびた世界がそれを知らなくても/私のことばがそれを記憶し 記録する/若い日のあなたが幼い子どもの手をひいて/なぜ見知らぬ鴨川べりに降り立ったのか」(「勇敢な女に」)

 峯澤典子『ひかりの途上で』(七月堂)で自然は、人にとってあらかじめ失われた「空白」として立ち現れている。言葉はそこに擦れ、響き返され、静かに痕跡を刻んでいく。そのような「エクリチュール」(書く行為)としての動きを含みながらも、この詩集は観念でなくただ感受性によって「空白」と相対する。一文が長すぎ読みづらい部分もあるが、裸の目と耳を晒して探られる世界は、美しく繊細な裸形をたしかにそっと明かしている。

「いまにも降りだしそうな/はつ、ゆきに耳を澄ます/ひとつ/また ひとつ/どこかでいきものが/息をひきとる 純粋なおとが/聞こえてくる//そのゆきおとを追い/てん、てん、てん、/納屋から森のほうへと/兎か 狐だろうか/南天の実のような/真新しい血が続いている//森のけものは思う/ことしのゆきが降れば/あとは/何も聞こえなくていい/何も見えなくていい//ふかく めしいて/みみはなは落ち/くちは月のための/花入れとなり/やっと/誰にも読まれない/冬の暦になるのだ と」(「はつ、ゆき」)

 香咲萌『私の空』(土曜美術社出版販売)の作者は、長年地図製図の仕事に携わってきた。ただ一つ図面上に描かれないのは、空だ。作者にとって詩作は、失われていた空を取り戻す過程そのものだった。感受性をありのままに晒すことで、かつてよりも深く真っ直ぐに、作者は空と繋がりえた。

「覗き窓から 空を視る/この切り取られた空間/それ以外は全て余白//伸ばせば手の届く 私だけの空//この空と向きあう/この空と 語りあう//私は交感する/空気の一粒一粒/雲の一粒一粒が/私の細胞と混じりあう//誰も知らない 私の空//歓びも 胸を引き裂く想いも/全て受けとめてくれる この 空」(「私の空」全文)