昨年10月詩人・仏文学者の入沢康夫氏が亡くなった。宮沢賢治やネルヴァルの研究、詩集『ランゲルハンス氏の島』『わが出雲・わが鎮魂』などで知られる。1980年代に現代詩の世界に足を踏み入れた私は、「詩は表現ではない」「作者と発話者は別だ」という主張を、当時流行したポストモダンに与するものと捉え、現実に向き合う詩を否定しているといつしか思い込んでいたらしい。
代表的な詩論集『詩の構造についての覚え書』(思潮社)を再読した。ハッとしたのは、初版の刊行が1968年、つまりいわゆる政治の季節の最中であること。じっくり読み進めると、件の主張の背景にある文脈が見えて来た。かいつまめばこうだ。詩が作者の純粋な表現だとして構造や関係を省みないことが、詩をゆきづまらせている。詩の諸要素の関係を解明し構造をダイナミックなものに鍛え直し、詩を「感受性の新しい容れ物」にして現実と対峙すべきだ―。
注目したのは以下の内容の箇所だ。構造=「つくりもの」でない詩はない。だが「つくりもの」という観念は「うさんくさい」。なぜなら権力者が「自らの秩序を、それ自体が一つのつくられた秩序であるくせに、自然の秩序の名の下にそれを隠蔽しつつ、広く及ぼし、そしてこれに対立する秩序を構想することを「つくりもの」として人々によって排斥されるようにしむけて来た」から。それに対し詩は、自身の「つくりもの性」を自覚しその可能性を追求することで、支配者の意図をあばきうる。詩の反逆性としての自由と倫理を突きつけうるのだ―。
『現代詩手帖』2月号も特集を組む。すぐれた詩人の営為を忘れず、その真意に今こそ耳を傾けたい。