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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

「環」53号に「さびしさと悲傷を焚いて─宮沢賢治」(「詩獣たち」第10回)を書いています。

「環」53号(藤原書店)にKan53
「さびしさと悲傷を焚いて─宮沢賢治」(「詩獣たち」第10回)を書いています。

私は賢治の世界に小学生の頃初めて接しました。
その世界は幼心に「もう一つの世界」のたしかな実在感を与えてくれました。
とりわけ「よだかの星」の闇と光は
いまも鮮明な心象風景として心の深くに刻印されています。

そして高校生になって私が生まれてから二番目に書いた
「幽霊」という詩は、
銀河鉄道の夜」に触発され書いた作品でした。
真昼の地上の野を汽車が往くという設定です。
「私」はカンパネルラのような少女たちと乗り合わせている。
その一人また一人が車室からいつしか消滅していくと、
やがてたった一人となった孤独の強烈な明るさに苦しめられながら
たちのぼる春の蒸気に包まれ、どこまでも旅を続けていった―
そんな詩の体験が現実の記憶のようにいまも生々しく蘇ります。

今回この原稿を書くために
賢治の日記や手紙も読みました。
そこから迫ってきたのは
暗い時代と自身の宿命という限界の中で
人間の真の共同性をもとめて切実に葛藤し続ける
本質的には宗教者である詩人の姿です。
その詩はまさに祈りと共にありました。
「心象スケッチ」である『春と修羅』の作品群を書く中で
詩人は魂のただなかで四次元という無限の軸をつかみとり
そこに個の宿命である生と死の時間を解き放っていきました。
そして未知の共同性と交感の可能性を見出したのです。
その「発見」または「覚知」を
詩の美しさと共に追体験することは
今こそ私たちに必要なことではないでしょうか。

ご一読いただければうれしいです。

…この最後に加筆された「序」にある「わたくし」は、固定的な主体ではなく、一瞬のはかない「現象」であり、生命の光を他者とたえず分かち合う「照明」である。「電燈」という「個」ではなく、光を「たもちあう」関係の一部だ。そのような「わたくしといふ現象」が無数に交流し、闇を焚き照らしだしていく。詩獣は『春と修羅』の詩作を通し、未知の共同性と交感の可能性を見出した。それは「わたくし」たちの「交流」が、個の宿命としての生と死の時間を、四次元の時間軸へ解き放ちうるという希望であり、過去と現在と未来が同時に存在する、「巨大に明るい時間の集積」(「序」)が立ち現れる予感でもある。…